大戦後の民族運動の展開

概要
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表記について

インドの民族運動

高まる民族運動と抑圧の強化

第一次世界大戦中、イギリスはインドの戦争協力を得るために、将来の自治を約束しました。
大戦後、イギリスは次のことで約束を果たしつつも、高まった民族運動を抑圧しました。
アムリットサール事件
ローラット法に反対する人々にイギリス軍が発砲し、多くの死傷者を出した事件

ガンディーの登場と運動の挫折

1915年、南アフリカで人種差別と闘った ガンディーがインドに帰国し、イギリスに抵抗する民衆の指導者となりました。
ガンディーは一貫して 非暴力・不服従運動  サディヤーグラハ  )を唱えました。
また、ガンディーはインド国民会議派を指導し、ローラット法に反対する非暴力・不服従運動を組織しました
ガンディーの指導で、知識人層に限られた民族運動が、一般大衆も参加するものへ成長しました。
しかし、ガンディーの思想に反して農民による警官殺害事件が発生し、運動は中止されました。
その後、民族運動は混乱し、イスラーム教徒は反インド国民会議派・親英路線を歩みました。

民族運動の再燃

1927年、新インド統治法を制定する憲政改革調査委員会(サイモン委員会)にインド人が含まれていなかったため、民族運動が再燃しました。
1929年、インド国民会議派が ネルー  の下で、 プールナ=スワラージ  (完全独立)の要求を決議しました。
1930年、民族運動の再燃の中、ガンディーはイギリスの塩専売に反対する抗議行動「 塩の行進  」をおこないました。
1930~32年、 英印円卓会議 
サイモン委員会の報告を受けて、イギリスが ロンドン  で開催した会議
ガンディーなどインドの様々な勢力を招集し、将来のインドの地位を議論
イギリスの譲歩を引き出せず、ガンディーやインド国民会議派の目的は未達成

各州自治の開始

1935年、 新インド統治法 
インド各州の自治制を導入した法
1937年、新インド統治法の下で州選挙が実施され、国民議会派が多くの州で政権を獲得しました。
イスラーム教徒が多い州では、全インド=ムスリム連盟が選挙に勝利しました。
少数派となった全インド=ムスリム連盟は、イスラーム国家パキスタンの建設を目標に掲げました。

東南アジアの民族運動

オランダ領東インド(インドネシア)

1927年、 スカルノ   インドネシア国民党  を結成し、オランダからの独立運動を指導しました。

フランス領インドシナ(ベトナム)

1925年、 ホー=チ=ミン  がベトナム青年革命同志会を結成し、 フランス  からの独立運動を指導しました。
1930年、ベトナム青年革命同志会を母体に、ベトナム共産党が結成されました。

イギリス領ビルマ(ミャンマー)

第一次世界大戦後  タキン党   ビルマ  (ミャンマー)でイギリス支配に対する独立運動を主導しました。

アメリカ領フィリピン

1907年、フィリピンで議会が開設され、フィリピン人への立法・行政の権限委譲が進められました。
一方、アメリカに依存した商品作物の生産が進み、窮乏化した農民が反乱を繰り返しました。

アフリカの民族運動

アフリカ民族会議

20世紀初頭までに、アフリカのほぼ全ての領域が植民地にされました。
1912年、 アフリカ民族会議  (ANC)
南アフリカで創設され、人種差別の撤廃を要求

パン=アフリカニズムとパン=アフリカ会議

19世紀末、アメリカのアフリカ系知識人が中心となり、アフリカの解放を目指す運動パン=アフリカニズムが開始されました。
ハン=アフリカニズムの動きとして、次の会議が開催されました。