大戦後の民族運動の展開

表記について
概要
第一次世界大戦後、各国の植民地では民族運動が高まりました。インドでは、イギリスによる抑圧がおこなわれましたが、ガンディーらが「塩の行進」などで反抗を続けました。完全な独立ではありませんでしたが、新インド統治法で各州の自治制が導入されました。以降もインドでは独立を目指す運動が継続されます。東南アジアやアフリカの国々でも、各指導者のもとで民族運動が広がり、独立が目指されました。

インドの民族運動

高まる民族運動と抑圧の強化

第一次世界大戦中、イギリスはインドの戦争協力を得るために、将来の自治を約束しました。
大戦後、イギリスは次のことで約束を果たしつつも、高まった民族運動を抑圧しました。
アムリットサール事件
ローラット法に反対する人々にイギリス軍が発砲し、多くの死傷者を出した事件

ガンディーの登場と運動の挫折

1915年、南アフリカで人種差別と闘った ガンディーがインドに帰国し、イギリスに抵抗する民衆の指導者となりました。
ガンディーは一貫して非暴力・不服従運動サディヤーグラハ )を唱えました。
また、ガンディーはインド国民会議派を指導し、ローラット法に反対する非暴力・不服従運動を組織しました
しかし、ガンディーの思想に反して農民による警官殺害事件が発生し、運動は中止されました。
民族運動は混乱し、イスラーム教徒は反インド国民会議派・親英路線を歩みました。

民族運動の再燃

1927年、新インド統治法を制定する憲政改革調査委員会(サイモン委員会)にインド人が含まれていなかったため、民族運動が再燃しました。
1929年、インド国民会議派がネルー の下で、プールナ=スワラージ (完全独立)の要求を決議しました。
1930年、民族運動の再燃の中、ガンディーはイギリスの塩専売に反対する抗議行動「塩の行進 」をおこないました。
塩の行進
イギリスから塩を購入せず(専売制を無視し)、海岸までの360㎞を行進して塩を手作りした抗議行動
塩の行進
塩の行進
1930~32年、英印円卓会議
サイモン委員会の報告を受けて、イギリスがロンドン で開催した会議
ガンディーなどインドの様々な勢力を招集し、将来のインドの地位を議論
イギリスの譲歩を引き出せず、ガンディーやインド国民会議派の目的は未達成
サイモン委員会
インド統治法の現状を調査・報告するための委員会

各州自治の開始

1935年、新インド統治法
インド各州の自治制を導入した法
1937年、新インド統治法の下で州選挙が実施され、国民議会派が多くの州で政権を獲得しました。
イスラーム教徒が多い州では、全インド=ムスリム連盟が選挙に勝利しました。
少数派となった全インド=ムスリム連盟は、イスラーム国家パキスタンの建設を目標に掲げました。

東南アジアの民族運動

オランダ領東インド(インドネシア)

1927年、スカルノ インドネシア国民党 を結成し、オランダからの独立運動を指導しました。

フランス領インドシナ(ベトナム)

1925年、ホー=チ=ミン がベトナム青年革命同志会を結成し、フランス からの独立運動を指導しました。
1930年、ベトナム青年革命同志会を母体に、ベトナム共産党が結成されました。

イギリス領ビルマ(ミャンマー)

第一次世界大戦後 タキン党 ビルマ (ミャンマー)でイギリス支配に対する独立運動を主導しました。

アメリカ領フィリピン

1907年、フィリピンで議会が開設され、フィリピン人への立法・行政の権限委譲が進められました。
一方、アメリカに依存した商品作物の生産が進み、窮乏化した農民が反乱を繰り返しました。

アフリカの民族運動

アフリカ民族会議

20世紀初頭までに、アフリカのほぼ全ての領域が植民地にされました。
1912年、アフリカ民族会議 (ANC)
南アフリカで創設され、人種差別の撤廃を要求
アフリカの植民地化(1914年)
アフリカの植民地化(1914年)

パン=アフリカニズムとパン=アフリカ会議

19世紀末、アメリカのアフリカ系知識人が中心となり、アフリカの解放を目指す運動パン=アフリカニズムが開始されました。
パン=アフリカニズムの動きとして、次の会議が開催されました。