ソ連の成立

表記について
概要
第一次世界大戦の衝撃が最も大きかったのはロシアでした。大戦末期の1917年3月、首都ペトログラードで起きた労働者のストライキからソヴィエトが生まれました。国会では臨時政府が樹立され、皇帝が退位しましたが、臨時政府も戦争を継続しました。社会革命党のケレンスキーが首相となりましたが、レーニンの率いるボルシェヴィキが臨時政府を倒し、ソヴィエト政権を樹立しました。ソヴィエト政権は国内の反革命勢力だけでなく外国の干渉軍とも戦いました。

ロシア革命

帝政の崩壊と臨時政府の樹立

第一次世界大戦の開戦以来、ロシアは敗北を重ね、食料・燃料不足に陥りました。
皇帝・国会は十分な対策をとらず、国民の不満が増大しました。
1917年3月、三月革命 ロシア二月革命
労働者・兵士が組織したソヴィエトが、ロマノフ朝の皇帝ニコライ2世 の退位、帝政の打倒を実現した革命
革命は労働者が首都ペトログラードで大規模な抗議を起こし、軍隊も加わったことで開始
ドゥーマ(国会)の立憲民主党の議員が中心となって臨時政府を樹立
三月革命
革命前までロシアで使用されていたユリウス暦(ロシア暦)では二月革命

ソヴィエト政府の樹立

三月革命で樹立した臨時政府は、第一次世界大戦を継続しました
ソヴィエトも祖国防衛のために戦争継続を容認しました。
この時期のロシアでは、権力をもつ臨時政府とソヴィエトが同時に存在したため、二重権力という状態が発生しました
1917年4月、ボリシェヴィキの指導者レーニンは、革命をさらに進める方針四月テーゼ を発表しました。
ソヴィエトの多数派が臨時政府に妥協的だったので、レーニンはソヴィエト内部で権力を奪っていきました。
これにより、レーニンは臨時政府の首相となったケレンスキー と対立しました。
1917年11月、十一月革命十月革命
レーニン・トロツキーらが武装蜂起を指揮して、、臨時政府を倒した革命
全ロシア=ソヴィエト会議でソヴィエト政府(ソヴィエト政権)樹立を宣言
十一月革命
革命前までロシアで使用されていたユリウス暦(ロシア暦)では十月革命
1918年、樹立したソヴィエト政府は、次の2つの布告を出しました。

ソヴィエト政府と共産党一党独裁

第一次世界大戦からの離脱

東部戦線を有利にしたいドイツは、ソヴィエト政府の「平和に関する布告」に応じて交渉に入りました。
1918年3月、ブレスト=リトフスク条約
ロシア のソヴィエト政府とドイツ との間で結ばれた講和条約で、ロシアは不利な条件で第一次世界大戦から単独離脱

共産党の一党独裁

十一月革命後の憲法制定議会でボリシェヴィキが第一党になれず 、レーニンは武力で議会を閉鎖・解散させました。
ボリシェヴィキは共産党 と改称され、ソヴィエト政府で一党独裁をおこないました。
憲法制定議会
十一月革命後の普通選挙で選出された最初の議会
ソヴィエト政府は、地主からの土地の無償没収と農民への分配、重要な産業や銀行の国有化 をしました。

世界革命の失敗

レーニン・トロツキー は、ロシアの社会主義の成功には、世界の資本主義国での革命「世界革命」が必要と考えました。
1919年、世界革命を目的にコミンテルン 第3インターナショナル)が結成されました。
しかし、革命はいずれも長続きせず、アジアの民族運動の支援も中国を除き失敗しました。
世界革命
反対する スターリンは一国社会主義を唱えてトロツキーと対立し、実権掌握後にトロツキーを追放・粛正

干渉戦争

ロシア革命後、帝政派やボリシェヴィキに反対する人々は、ソヴィエト政権との間で内戦を起こしました。
協商国は、革命が自国に及ぶことを恐れ、反革命軍を支援しました。
さらに協商国は、シベリア出兵(対ソ干渉戦争)を開始し、革命を牽制しました。
日本
シベリア出兵(対ソ干渉戦争)に参加し 、1922年に撤退
ソヴィエト政府は正規軍赤軍 を組織し、チェカ 非常委員会)を設置して反革命勢力を取り締まりました。
また、ソヴィエト政府は、食料を強制的に徴収する戦時共産主義政策 を実施しました。
1920年には反革命勢力がほぼ制圧され、協商国の軍も撤退を始めました。

ソ連の成立

ネップ

ソヴィエト政府の戦時共産主義政策は、農民の強い不満を呼びました。
レーニンは新経済政策 ネップ)を実施して、穀物徴発を廃止し、余剰農産物の自由販売と企業の私的営業を許可しました。
一定の範囲で資本主義的な活動を認めたことで、生産意欲が刺激され、1927年頃までに生産は戦前の水準に回復しました。

ソヴィエト社会主義共和国連邦

1922年、ロシア・ウクライナ・ベラルーシ・ザカフカースは、連合してソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)を結成しました。