概要
19世紀、産業革命を達成したイギリスをはじめとする欧米諸国が、アヘン戦争を契機に中国への進出を開始しました。強大な経済力と軍事力を武器にする欧米諸国の進出は、政治・経済・文化の面で中国の伝統的社会に激しい衝撃と動揺を与えました。これをThe
Western Impact(西洋の衝撃)と呼びます。中国の長い苦難が始まりました。
欧米諸国の進出の契機
財政窮乏と弱体化の露呈
18世紀、清では土地不足による農民の貧困化が生じ、社会不安が広がりました。
1796~1804年、
白蓮教徒の乱
乾隆帝の治世下の清
で起こった、白蓮教を中心とする農民反乱
10年近く続く反乱は、清の財政を窮乏させると同時に、その弱体化も露呈させました。
ロシアとの国境画定
4代皇帝康熙こうき 帝の治世
1689年、
ネルチンスク条約
ロシアのピョートル1世と清
の康熙帝
との間で、通商とシベリアでの国境を決めた条約
5代皇帝雍正ようせい 帝
の治世
1727年、
キャフタ条約
清とロシアが結んだ条約で、モンゴル北辺の国境と交易場の設置を取り決め
イギリスの貿易要求
6代皇帝乾隆帝けんりゅうてい の治世
1792年、イギリス
は使節マカートニー
を清に派遣し、清の6代皇帝乾隆帝
に貿易拡大を求めました。
マカートニーの貿易交渉は、拒絶されて失敗しました
。
乾隆帝は貿易を恩恵とする中華思想から要求を拒否
アヘン戦争
茶の輸入急増と銀の流出
18世紀後半、イギリスは本国での茶の需要が増えたため、清から茶を輸入しました。
一方で、イギリスが生産した綿製品は、清でなかなか売れませんでした。
これにより、イギリスの対清貿易は輸入超過でした
。
輸入超過の結果、イギリスが決済に用いていた銀
の流出が顕著となりました。
銀の流出
三角貿易と銀の回収
19世紀、イギリスは銀の流出を解決するため、次の貿易を始めました。
イギリスがインドに綿製品を輸出
インドが貿易赤字を補うためにアヘンを生産し、イギリスが輸入
イギリスがインド産のアヘンを中国に密輸
清のアヘン中毒者がアヘンを買い求めるため、イギリスに銀が流入
この貿易を三角貿易
と呼びます。
阿片を作れるケシの花
イギリスの三角貿易は、清でのアヘンの密貿易を増加させました。
イギリスの思惑通り、清からイギリスへ銀が流入しました。
三角貿易
戦争の勃発
清は以前からアヘンの吸飲・輸入を禁止しており、密輸を問題視しました。
1839年、清は大臣林則徐りんそくじょ
を広州に派遣し、アヘンの密貿易を取り締まらせました。
林則徐は、アヘンを没収・廃棄処分し、イギリスにアヘン貿易禁止を求めました。
アヘンの健康被害はイギリス本国でも問題視
アヘン窟(アヘン販売・喫煙の施設)
1840~42年、
アヘン戦争
林則徐によるアヘン貿易の取締りをきっかけに
、イギリスが「自由貿易の実現」を主張して清に挑んだ戦争
清はイギリス海軍に終始圧倒されて敗北
アヘン戦争
1842年、
南京条約
アヘン戦争
の講和条約
①香港島
の割譲
②上海
・寧波・福州・厦門・広州の開港
③公行の廃止
④賠償金の支払い
西洋の衝撃-The Western Impact-
欧米との不平等条約
1842年、
南京条約
アヘン戦争
の講和条約
①香港島
の割譲
②上海
・寧波・福州・厦門・広州の開港
③公行の廃止
④賠償金の支払い
アヘンの密輸は言及されず、以降も密輸が継続
南京条約は、追加条約(五港通商章程・虎門寨追加条約)で次の制度・権利も認めました。
1844年、清はイギリスと同様の権利をアメリカ・フランスに認めました。
アメリカ:望厦ぼうか 条約
フランス:黄埔こうほ 条約
さらなる清への進出
アヘン戦争後、イギリスの利益は期待したほどあがりませんでした。
イギリスは、より好条件を求め、条約改定の機会をうかがっていました。
1856年、
アロー号事件
イギリス船籍アロー号の中国人乗組員を海賊容疑で逮捕した事件
イギリスが、逮捕時にイギリス国旗が侮辱されたと主張
アロー号事件
1856~60年、
アロー戦争
(
第2次アヘン戦争 )
アロー号事件
を契機にした、イギリスと清の戦争
フランス
が清での宣教師殺害を理由にイギリスと共同出兵
戦争中の1858年、英仏と清は講和条約として天津条約を締結
1859年、天津条約の批准を清が拒否したため、イギリス・フランス
が北京占領
アロー戦争の際、
円明園がイギリス・フランスによって破壊・略奪
1860年、
北京条約
天津条約に追加された、アロー戦争のもう一つの講和条約
①天津
・漢口
(長江中流)など11港の開港
②外国公使の北京駐在の承認
③外国人の中国内地の旅行の承認
④キリスト教布教の自由の承認
⑤イギリス
への九竜半島南部の割譲
⑥ロシアへのウスリー江以東(沿海州
)の割譲
ロシアはアロー戦争の調停を機会に沿海州
を取得
ロシアの進出
ロシアと清の国境画定
19世紀、ロシアの東シベリア総督ムラヴィヨフ
は、清への圧力を強化しました。
ロシアは、アロー戦争を機会に次の条約を結びました。
19世紀後半、ロシアは、太平洋進出の拠点として、沿海州に港湾都市ウラジヴォストーク
を建設しました。
1881年、
イリ条約
清のイリ地方で起きたムスリムの反乱を機にロシアが出兵したイリ事件後、ロシアが撤兵の条件として清と結んだ条約
ロシアと清でイリ地方の国境を画定
中央アジアの保護国化
19世紀後半、ロシアは中央アジア南部に侵攻しました。
ロシアは、次の3国を併合あるいは保護国とし、ロシア領トルキスタンを構成しました。
ブハラ=ハン国
の保護国化
ヒヴァ=ハン国
の保護国化
コーカンド=ハン国
の併合