概要
イギリスがインド支配を強めたことをうけ、西欧列強は東南アジアの植民地化を狙いました。ジャワ島、マレー半島、フィリピン、インドシナ半島が植民地化されていき、東南アジアのうちでタイのみが植民化を回避できました。
植民地化
ジャワ島
ジャワ島の征服
1623年、
アンボイナ事件
インドネシアのモルッカ諸島で、オランダ人がイギリス商館員を虐殺した事件
事件後、敗れたイギリス
は東アジアから締め出され、インド経営に尽力
アンボイナ事件後、オランダ
はジャワ島へ進出し始めました。
18世紀半ば、オランダはマタラム王国
を滅ぼしました。
これにより、オランダはジャワ島の大半を支配下に置きました。
ジャワ島の経営
19世紀、オランダはジャワ島の住民にコーヒー・サトウキビ・藍を
生産させました。
1825~30年、ジャワ戦争
オランダの暴政に対するジャワ島の大反乱
オランダは反乱を鎮圧したが、財政窮乏を誘発
1830年以降、オランダはジャワ島の住民にコーヒーなどを生産させ、安価で買い上げる強制栽培制度
を導入しました。
オランダは莫大な利益をあげ
、一方でジャワ島は飢饉で苦しみました。
マレー半島
マレー連合州
18世紀末からイギリスはマレー半島に進出しました。
さらに、オランダが支配するジャワ島を一時占領しました。
1824年、イギリスはオランダと協定を結び、ジャワ島を返還して、今後のマレー半島での支配拡大を認めさせました。
1826年、イギリス
はマレー半島沿岸のマラッカ・ペナン・シンガポールを拠点に、海峡植民地
を形成しました。
海峡植民地
当初は東インド会社の管轄で、1867年以降にイギリス本国の直轄領
1895年、イギリスはマレー半島内部の国々を保護国化し、マレー連合州
(マライ連邦)を結成させました。
マレー半島の経営
イギリス
は、マレー半島にゴム
栽培のプランテーションを形成しました。
プランテーションの労働者として、南インドから大量の移民が導入されました。
ビルマ
1752年、コンバウン朝
がビルマ(現ミャンマー)におこりました。
1824~86年、
ビルマ戦争
イギリスとコンバウン朝の3回にわたる戦争
イギリスがコンバウン朝
を滅ぼしビルマ
を植民地化
フィリピン
16世紀後半以降、フィリピンはスペイン
の植民地とされました。
スペインは、フィリピン人をキリスト教の宗派の一つカトリック
に改宗させました。
1834年、スペインは自由貿易をおこなうため、マニラを開港しました。
商人や高利貸しが土地を集め、サトウキビ・麻・タバコなどのプランテーションを形成しました。
ベトナム・カンボジア・ラオス
阮朝の成立
16世紀以降、ベトナムでは黎朝の名目的支配のもとで鄭氏・阮氏が対抗を続けました。
1771年、西山の乱
鄭氏・阮氏、黎朝を滅ぼし、ベトナムを統一させた農民反乱
ベトナムに西山政権が成立
1802年、阮氏の生き残りの阮福暎
が、フランス人宣教師ピニョーの協力を得て西山政権を倒し、阮朝
(越南
)を興しました。
1804年、阮福暎は清によってベトナム国王に封ぜられました。
フランスの進出
インドシナ出兵
19世紀半ば、フランスはカトリック教徒への迫害を理由に、ベトナムに軍事介入しました。
1867年、フランスはベトナム南部を奪いました。
ベトナム全域の制圧
ベトナム北部では、劉永福
が組織した黒旗軍が、フランス
の植民地支配に抵抗しました。
フランスはこの抵抗も口実にして北部に進出しました。
1883年、
ユエ条約
フランスがベトナムを保護国とした条約
ベトナムの帰属をめぐる戦争
1884~85年、
清仏戦争
ベトナム
への宗主権を主張する清朝が、フランスがベトナムを保護国化したことに
反対して宣戦布告
フランスが勝利
1885年、
天津条約
清朝が、フランスによるベトナムの保護国化を認めた条約
フランス領インドシナ連邦の成立
1887年、フランスは保護国化したベトナムとカンボジア
(1863年、保護国化)を併せてフランス領インドシナ連邦
を成立させました。
フランス領インドシナ連邦成立後の1899年、ラオス
が編入されました。
フランス領インドシナ
植民地化の回避
タイ
18世紀末、ラタナコーシン朝
がバンコクを首都としてタイに成立しました。
19世紀前半まで、ラタナコーシン朝はヨーロッパ諸国に閉鎖的な政策を採りました。
しかし19世紀後半、ヨーロッパ諸国の圧力をうけ、国王ラーマ4世は自由貿易を受け入れました。
ラタナコーシン朝国王ラーマ5世
(チュラロンコン)は、次の状況と政策で植民地化を回避しました。
- タイがイギリス・フランス両勢力の緩衝地帯に位置
- 外国留学や外国人専門家の招致で近代化政策を推進