明治の文化―教育と科学

表記について
概要
学校教育による全国最低限の学力水準の確保は、国力増強に欠かせませんでした。文部省の下、フランスの学校制度に倣い、1872年に学制が公布されました。しかし、授業料の徴収や労働力としての子どもの在り方から、就学率は当初伸び悩びました。政府は、学問による立身出世の強調や授業料の廃止に尽力し、次第に就学率を伸ばしました。

教育

学校体系の整備

1872年公布の学制の下、小学校教育の普及が進められました。
結果、義務教育の就学率は次第に高まりました。
しかし、地方の実情を無視した画一的な強制には、批判の声もありました。

就学率
1879年、教育令公布
アメリカの教育制度を参考に、学制を改正した法令
①全国画一の学区制を止め、小学校設置を町村の自由裁量に変更
②小学校管理を地方に移管し、就学義務を緩和
1880年、教育令改正
強制から放任への転換が混乱を招いたため、政府の権限を強化
1886年、学校令公布
1886年の学校制度に関する法令の総称
文部大臣森有礼もりありのりのもとで公布
唯一の官立大学であった東京大学帝国大学に改組
尋常じんじょう小学校年間が義務教育
学校令
帝国大学令・師範学校令・中学校令・小学校令の総称
1900年の義務教育の授業料廃止で、1902年の平均就学率は90%超え
1907年の小学校令の改正で、義務教育年制成立
森有礼(初代文相)
不敬行為を報じられ、憲法発布の日、事実と信じた国粋主義者に暗殺されました。

1892年の学校系統図

国家のための教育

教育政策は、次第に思想統制の役割を強め、次のことが取り組まれました。

教育勅語

教育勅語の重さ

1891年、内村鑑三不敬事件
キリスト教徒内村鑑三が、講師を務める中学校の教育勅語奉読ほうどく 式で、天皇署名のある勅語に向かって単なる敬礼で済ませ、世の攻撃を受けた事件
内村鑑三は、最敬礼などの礼拝行為が、天皇を神に祭り上げてしまうと拒否
井上哲次郎は『教育ト宗教ノ衝突』を著し、キリスト教を批判

内村鑑三

高等教育機関の拡充

官立学校

東京帝国大学のほか、明治時代には京都・東北・九州の各帝国大学が創設されました。
大正・昭和初期に、北海道・京城けいじょう(朝鮮)・台北たいほく (台湾)・大阪・名古屋の各帝国大学が増設され、併せて「9帝大」と総称されました。

私立学校

民間では、次のような私立学校が創立され、官立とは異なる学風を誇りました。

科学

諸分野の発展

法学

フランスのボアソナードが招かれ、法典の整備が進みました。
民法典論争を契機に、ドイツの法学が主流となりました。

日本史・日本文学

田口卯吉
日本開化小史』を著し、文明史論を展開した人物
東京帝国大学史料編纂がかり
『大日本史料』『大日本古文書』などの編纂所
モース
大森貝塚を発見したアメリカ人
ナウマン
フォッサ=マグナを指摘し、ナウマンゾウに名を残したドイツ人

モース

自然科学

北里柴三郎きたざとしばさぶろう
破傷風はしょうふう血清療法とペスト菌を発見した人物
福沢諭吉の援助をうけ、伝染研究所を設立
志賀潔しがきよし
赤痢せきり菌を発見した人物
鈴木梅太郎
オリザニン(ビタミンB1)の抽出に成功した人物
高峰譲吉
アドレナリンを抽出し、また、タカジアスターゼ創製した人物
長岡半太郎
原子模型を研究した人物
木村ひさし
緯度変化のZ項を発見した人物

北里柴三郎

鈴木梅太郎

科学と伝統の衝突

1891年、帝国大学教授久米邦武くめくにたけ は、「神道は祭天の古俗」と論じ、神道が自然崇拝(アニミズム)に過ぎず、教えのある宗教ではないとしました。
久米邦武は、神道家や国学者から非難を浴び、教授を辞職しました。
久米邦武
岩倉使節団に随行し、見聞を『米欧回覧実記』にまとめた人物

久米邦武