激動の時代の終わり

表記について
概要
田中角栄内閣以後も、自民党の一党支配は崩れませんでした。1989年1月、昭和天皇が崩御し、元号は平成と改められましたが、この間の日本の政治は、経済・社会の安定に支えられて、大きな変化を伴うことなく、小さな波瀾を繰り返しました。時間的にそれほど隔たりをもたないこの時代の評価は、後世に評価を委ねなければなりません。

1972~89年の内閣

腐敗政治の露呈

第1・2次田中角栄内閣|1972年7月~1974年12月

1972年、田中角栄「日本列島改造論」を掲げて内閣を組織した。

田中角栄

日本列島改造論
日中国交正常化
1972年、日中共同声明調印
日本側代表の田中角栄と中国側代表の周恩来しゅうおんらいが、北京で日中国交正常化を声明
中華人民共和国を「中国唯一の合法政府」と認め日華平和条約を破棄
調印時の外務大臣は大平正芳おおひらまさよし
列島改造政策
交通網整備などの列島改造政策は、地価の高騰を引き起こしました。
これに第1次石油危機による原油価格の高踏が重なり、狂乱物価と呼ばれる激しい物価上昇が発生しました。
政府が物価上昇抑制に金融を引き締め、1974年、戦後初のマイナス成長となりました。

収賄容疑
首相の政治資金調達をめぐる疑惑金脈問題が明るみに出て、1974年、田中角栄内閣は総辞職しました。

三木武夫内閣|1974年12月~1976年12月

1974年、三木武夫たけおが「クリーン政治」を掲げて内閣を組織しました。

三木武夫
1876年、ロッキード事件
ロッキード社が航空機売込みを目的に、日本の政界に賄賂を贈った汚職事件
賄賂を受け取っていた田中角栄前首相らを逮捕
1876年、自由民主党が衆議院議員総選挙で衆議院の過半数を割り込みました。
この大敗の責任をとり、三木武夫内閣は総辞職しました。

保革伯仲から保守の再安定へ

福田赳夫内閣|1976年12月~1978年12月

1976年、自由民主党総裁の福田赳夫たけおが内閣を組織しました。

福田赳夫
1978年、日中平和友好条約締結
1972年の日中共同声明をもとに、日中両国の不戦と友好を約した条約

第1・2次大平正芳内閣|1978年12月~1980年7月

自由民主党総裁選の結果、1978年に新総裁大平正芳が内閣を組織しました。

大平正芳
大平正芳は、イラン革命による1979年の第2次石油危機に対処しました。

鈴木善幸内閣|1980年7月~1982年11月

1980年の衆参同日選挙の結果、自由民主党は安定多数を回復しました。
同年、急死した大平正芳の後継の鈴木善幸が内閣を組織しました。

鈴木善幸

行財政改革

第1~3次中曽根康弘内閣|1982年11月~1987年11月

1982年から、中曽根康弘やすひろ が内閣を第1~第3次と組織しました。

中曽根康弘
日米韓関係の緊密化と防衛費の増額
防衛費を増額し、日本列島の「不沈空母」化を目指しました。

行財政改革
電電公社(現NTT)・専売公社 (現JT)・国鉄(現JR)の民主化を断行しました。

平成の始まり

竹下登内閣|1987年11月~1989年6月

1987年、竹下のぼるが内閣を組織しました。

竹下登
改元
1989年1月7日、昭和天皇が崩御し、平成と改元されました。

「平成」の発表
新税の導入
1989年、税率3%の消費税を導入しました。

疑獄事件
リクルート社が政界要人に賄賂を贈った事件リクルート事件が発覚し、消費税導入への反発も併せて、竹下登は総辞職しました。

経済大国「日本」

バブル経済

第1次石油危機後、日本は省エネ・減量経営を図り、第2次石油危機も乗り切りました。
1980年代、日本は欧米と比べると高い成長率を維持し、安定成長を続けました。
日本の貿易黒字の拡大は、欧米との間に貿易摩擦を起こしました。
アメリカでは、日本製自動車を叩き壊すなどのジャパン=バッシングも起こりました。

ジャパン=バッシング
1985年のプラザ合意のドル高是正・円高加速で、日本の輸出は減退しました。
しかし、日本は内需の拡大に支えられ、景気を回復しました。
内需景気は、地価・株価の暴騰とともに進行し、バブル経済と呼ばれました。