室町文化-文化の諸相

表記について
概要
これまで学習した室町文化を踏まえた上で、同時代の庶民の文化受容や地域の動向を学習します。室町時代に入って、庶民の生活の向上は著しく、その生活を伝える記録が豊かになるのもこの時代からです。また、徐々に庶民間に浸透した鎌倉仏教は、結束力を高めて各地で一揆を起こしました。

庶民を担い手とする文化

庶民文芸の流行

連歌

宗鑑が『犬筑波集 』を編集して、滑稽を主とする庶民的な俳諧はいかい連歌(俳諧)を確立しました。
宗鑑のような連歌師が各地を遍歴して普及させ、民衆の間で連歌が流行しました。
宗鑑(山崎宗鑑)
室町幕府9代足利義尚に仕え、後に出家しました。俳諧連歌を興隆し、その奔放で滑稽味のある気風は、江戸時代初期の談林俳諧に影響を与えました。生没年不明。

芸能

田楽・猿楽から発達したは庶民にも好まれました。
能の幕間まくあいに行われる狂言には日常的な言葉が用いられ、庶民の生活がその題材に選ばれました。

狂言

その他芸能

幸若舞こうわかまい・古浄瑠璃・風流踊り小歌が庶民に好まれ、特に小歌の歌集として『閑吟 かんぎん 』が編まれました。
幸若舞
武士の悲しい物語を題材にする芸能
古浄瑠璃
三味線を伴奏とする語り物で、江戸時代前期から人形浄瑠璃

文学

絵入りの短編物語である御伽草子おとぎぞうしが次々に作られ、庶民の読者を増やしていきました。
御伽草子
『浦島太郎』『一寸法師』『物くさ太郎』など

『浦島太郎』

『鼠草紙』

庶民が担い手となった背景―識字率の向上

商工業者をはじめ、農村でも読み・書き・計算が普及しました。
15世紀半ば、『節用集』という辞書が作られ、知識の普及に大きな役割を果たしました。

『節用集』

鎌倉仏教の動向

世俗を嫌った禅宗の一派

幕府の保護を受ける臨済宗の一派(五山派あるいは 叢林そうりん)に対して、世俗を嫌った臨済宗の一派および曹洞宗は林下りんか と呼ばれました。
林下は地方で布教をおこない、地方の武士や庶民の支持を得ました。
林下の寺院には、臨済宗では妙心みょうしん大徳寺、曹洞宗では永平寺でありました。
臨済宗大徳寺の僧一休宗純は、五山の腐敗や堕落を批判しました。

一休宗純

日蓮宗の展開

関東に留まっていた布教が、室町時代には京にも及ぶようになりました。
6代将軍足利義教の時代に現れた日親は、他宗と激しい論戦をして、しばしば迫害を受けました
日蓮宗は京で信者を徐々に増やし、法華一揆を結んで他宗と衝突しました。
1536年、天文法華の乱
法華一揆が比叡山延暦寺と衝突し、一時京を追われた事件

鍋をかぶせられる日親

浄土真宗(一向宗)の展開

応仁の乱の頃、本願寺の蓮如が現れ、御文という平易な文章で浄土真宗の教義を説きました。
また、という門徒の集会を惣村ごとに開かせ、御文を送って信仰を固めさせました。
門徒の結束力は強大になり、各地で一向一揆が起きました。
代表的な一向一揆は、1488年の加賀の一向一揆です。

蓮如

文化の地方普及

知識人

応仁の乱後、守護は京の貴族を受け入れたり、知識人を招いたりして威信を高めました。
桂庵玄樹は肥後の菊池氏・薩摩の島津氏に招かれて朱子学を講じ、南村梅軒は土佐で朱子学を講じました。
桂庵玄樹…
薩南学派の祖で、薩摩国で朱熹しゅき の『大学章句』を刊行
南村梅軒
存在が近年疑問視されていて、1994年度センター試験以来出題なし

板東の大学

15世紀中頃、関東管領上杉憲実のりざね 足利学校を再興しました。
足利学校は関東の学問の拠点となり、全国から人々が集まりました。
足利学校(所在地:栃木県)
足利学校は日本で最も古い学校として知られます。しかし、その創建については未だ不明で、明らかな歴史は上杉憲実の再興以降のみです。
宣教師フランシスコ=ザビエルに「板東の大学」として世界に紹介されました。

教科書

「御成敗式目」や往来物おうらいもの庭訓往来 ていきんおうらい』が読み書きの手本にされました
往来物
手紙のやり取りを参考に、生活に必要な知識を学ぶ教科書の総称