概要
物部守屋を滅ぼした蘇我馬子は、厩戸王とともに政務を執りました。新政策の1つは外交で、隋の中国統一という情勢下、朝貢という従来の外交をやめ、隋に対して対等な立場を求めました。使者を派遣するのに先立ち、603年に冠位十二階、604年に憲法十七条が制定されました。交渉にあたり、相応の秩序が必要と考えたからです。
旧外交の解体
蘇我馬子と厩戸王の協力(崇峻天皇~推古天皇の代)
587年、大臣蘇我馬子と厩戸王が大連物部守屋を滅ぼしました。
物部守屋の死後に大連は廃絶
厩戸王は、物部守屋との戦いに際して戦勝を祈願し、達成後に四天王寺を創建
四天王寺
大王の崇峻天皇は、やがて蘇我馬子と対立し、暗殺されました。
次の大王推古天皇は、即位後に厩戸王を摂政に任命しました。
大臣蘇我馬子と摂政厩戸王が共同で政務を執りました。
国際情勢の変化―隋の中国統一
589年、隋が中国を統一しました。
高句麗・百済、そして遅れて新羅が隋に朝貢しました(冊封体制に入りました)。
高句麗は無礼なことが多く、隋は軍をしばしば派遣
6~7世紀初頭の東アジア
5世紀の倭の五王以降、ヤマト政権の朝貢は途絶えていました。
朝鮮半島の諸国に対して、ヤマト政権が優位に立つためには、隋と対等な関係を結ばなくてはなりません。
600年、ヤマト政権は隋と交渉を試みたが失敗しました。
対等な関係を結べるだけの、地固めをする必要があると浮き彫りになりました。
外交に向けた地固め
役人の序列化
603年、冠位十二階制定
- 役人である豪族を、能力に応じて12段階で序列化
- 色別の冠を授けて、序列の判別や厳粛な雰囲気の演出
- 冠位は個人単位の賜与で一代のみ(⇔姓は氏単位で世襲可)
意義:姓では限界のあった役人の序列化
冠位がない場合
役人の道徳
604年、憲法十七条制定
- 第1条:和(豪族同士の融和)を心掛けること
- 第2条:三宝(仏・法・僧)を敬うこと
- 第3条:詔(大王の命令)に従うこと
意義:ヤマト政権の方針と役人の心得の明確化
隋・唐との外交
隋への派遣
607年、小野妹子が遣隋使として派遣され、隋の皇帝煬帝に国書を渡しました。
『隋書』倭国伝
- 大王「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」
大王も「天子」という称号を名乗り、隋と対等な立場を主張
- 煬帝「蛮夷の書、無礼なる者有らば、復た以て聞する勿れ」
倭王(中国からの大王の称号)も「天子」と名乗ったことに憤慨
- 煬帝は裴世清らを倭国に派遣
憤慨の一方で、高句麗との対立上倭国は無視できない存在
中国と対等な立場とは、冊封体制に入らないこと
隋への再派遣
608年、小野妹子が再度派遣され、隋に国書を届けました。
『日本書紀』(720年に編纂)
- 大王の称号に「天皇」を使用(『日本書紀』の編者による文飾!?)
…中国から与えられた称号「倭王」を忌避!?
- 留学生高向玄理、学問僧旻・南淵請安も隋に派遣
隋の滅亡、唐の建国
隋が高句麗の征討に幾度も臨むと、国内で反乱が起きました。
618年、隋が滅亡して、唐が建国されました。
630年、犬上御田鍬が遣唐使として派遣されました。
以降も、菅原道真が894年に廃止を建議するまでしばしば派遣されました。
◇ヤマト政権(8世紀初頭以降、日本)は、唐の冊封体制には不参入
遣唐使船(復元模型)