概要
寛政の改革は、老中松平定信の主導により断行されました。この政権への交代が、天明の打ちこわしという民衆蜂起の脅威の下に実現したことは、改革の特質を理解する上で重要です。すなわち、いかにして都市の社会秩序を回復し、打ちこわしの再発を予防するかが、改革政策の1つの大きな柱となりました。
松平定信の登場
謂われのない責任転嫁
1782年からの大飢饉天明の飢饉は社会不安を増大させました。
田沼意次は天明の飢饉や米価上昇の責任を転嫁され、1786年、10代将軍徳川家治の死後に老中を退きました。
歪められた人物評価―田沼意次
農業中心から市場経済中心の時代への過渡期、田沼意次はいち早く従来の武士の倫理観を脱却し、商いを重視した。しかし、時代を先取りし過ぎた政策に、反発する勢力も現れた。特に松平定信は真っ向から反発し、飢饉時に放った言葉は苛烈を極めた。晩年の意次は病に伏したが、新政権は医師の往診をわざと控えさせた。そして死後、巷には「まいない鳥(賄賂をもとめて飛び回る役人の姿)」などの風刺画が出回った。やがて風刺画は意次を表すと伝えられ、後世意次は悪徳政治家として語られた。今日、これらは幕府への批判を逸らそうとした人々が誇張したものと考えられている。
脅威下の政権交代
1787年、全国的な打ちこわし天明の打ちこわしが江戸でも生じました。
この民衆蜂起の脅威の下、11代将軍徳川家斉の補佐として、白河藩主松平定信が老中に就任しました。
松平定信は、寛政の改革と総称される改革で、“内憂外患”に対処しました。
内憂…飢饉で危うい農村の再興、民衆蜂起の防止、武士の不満解消
外患…日本近海に現れたロシア船・イギリス船などの外国船への対応
松平定信
8代将軍徳川吉宗の次男田安
宗武の子で、田安家の出身
松平定信
寛政の改革―内憂
農村の再興
松平定信は、荒廃した農村を再興させるために次の政策をおこないました。
- 人口の少ない東北・北関東において、百姓の他所への出稼ぎを制限
- 耕地復旧のために、全国で公金の貸付を開始
- 飢饉用米穀の貯蔵倉社倉・義倉を各地に設置し、そこに米穀を蓄える政策囲米
を実施
社倉・義倉
民衆蜂起の防止
松平定信は、打ちこわしが起きた江戸の次なる蜂起の防止に取り組みました。
政策実行に、両替商などを10名からなる勘定所御用達に登用しました。
農業人口確保と流入民減少
旧里帰農令を発令して、出稼ぎ目的での江戸への流入民に資金を与え、故郷へ帰らせようとしました。
蜂起の危険分子の拘禁
江戸石川島に人足寄場を設置して、危険分子の無宿人を強制収容し、社会復帰のために職業技術を覚えさせてから釈放しました。
農村からの流入民は、大半が定職・住居を持たずに秩序を乱す無宿人に転落
人足寄場
救済用資金の確保
江戸の各町に町費(町入用)節約を命じ、その節減額の7分(70%)を積み立てさせ、七分積金と呼ばれる飢饉・災害時の救済用資金に充てました。
そして、新設した江戸町会所に七分積金の管理・運用を任せました。
七分積金
出版と思想の統制
政治批判がましい出版物は、風俗の悪化や民衆蜂起の煽動に繋がると考えられました。
出版統制令を発令して、洒落本や黄表紙などの貸出・売買を禁じました。
洒落本作家の
山東京伝
、黄表紙作家の
恋川春町、出版元の蔦屋重三郎が処罰されました。
山東京伝
恋川春町
蔦屋重三郎
思想家林子平は、『三国通覧図説』『海国兵談』を著し、外国の侵略から日本を守るために海防の必要性を力説しました。
定信は、民間の者が幕府の政策を論ずべきでないとし、林子平を処罰しました。
林子平
武士の不満解消
困窮する武士の救済
旗本・御家人の代理として蔵米を売却する札差は、金融業で巨利を得ていました。
旗本・御家人は札差からの貸金によく頼り、その返済に苦しみました。
松平定信は棄捐令
を発令し、札差に貸金返済の帳消しを命じました。
旗本・御家人への貸金は、新設した貸金会所に低利でおこなわせました。
武士の不満抑制と解消
儒学による武士の教育が、出世などに対する不満の抑制に繋がると考えられました。
定信は寛政異学の禁を発して、儒学のうちで朱子学を“正学”とし、湯島聖堂に付属する林家
の私塾で朱子学以外の学派“異学”の講義を禁じました。
1797年、この私塾は切り離され、幕府直轄の学問所昌平坂学問所となりました。
学問所では人材登用のための学術試験をおこない、下級武士に出世の機会をつくりました。
異学
例えば、儒学の一派である古学(古学派)・陽明学など
昌平坂学問所
岡田寒泉(後に古賀精里と交代)・柴野栗山・尾藤二洲
が、学問所の教官を務め、当時の人は彼らを「寛政の三博士」と呼称