概要
18世紀後半から19世紀前半、幕府が“内憂外患”に手をこまぬく一方、藩政改革に成功した雄藩が台頭し、また、天皇・朝廷が権威復活を強く意識しました。4つの雄藩「薩長土肥」のうち、特に薩摩藩は密貿易で莫大な利益を獲得しました。幕末には独自のルートで洋式武器を購入し、強大な武力を背景に影響力を有するようになります。
上下秩序の動揺
自立を目指す諸藩
18世紀後半から、諸藩も幕府同様に財政の危機に陥りました。
諸藩では藩主自らが指揮を執り、財政再建を目指す改革藩政改革をおこないました。
18世紀後半、改革に成功した次の藩主らは、藩校の設立にも貢献して名君と呼ばれました。
米沢藩
藩主:上杉治憲
/藩校:興譲館
秋田藩
藩主:佐竹義和/藩校:明徳館(明道館)
上杉治憲
19世紀前半、他藩も次々に藩政改革を成功させていきました。
幕府の弱体化を見て、力をつけた藩雄藩は幕府の権力からの自立を目指し始めました。
復古を目指す朝廷
18世紀末、幕府の権力、つまり将軍の権威が“内憂外患”に対処できないと露呈しました。
将軍に替わる上位の権威として、天皇の権威が再度浮上し始めました。
1793年の尊号一件を起こした
光格天皇は、権威復活“復古”を特に求めました。
光格天皇
傍系の閑院宮
家出身のためか、強烈な復古意識を示した天皇
光格天皇
19世紀の藩政改革
薩摩藩
1827年から調所広郷
が改革に着手して下の①~③をおこないました。
調所広郷の死後、藩主島津斉彬
が④をおこないました。
19世紀半ば以降、薩摩藩はイギリス人商人グラバーから洋式武器を密輸入
1866年、薩長同盟が成立すると、薩摩藩は武器を長州(萩)藩に横流し
調所広郷の改革
- 三都の商人からの負債500万両を、無利息250年間での返済として棚上げ
- 奄美三島(大島・徳之島・喜界島)特産の黒砂糖の専売制を強化
- 松前から長崎に向かう船から俵物を密かに購入し、琉球王国を通して清に販売
琉球王国
1609年に島津家久
の軍に征服され、以降薩摩藩の支配下
調所広郷
薩摩藩の密貿易ルート(図中の緑線)
島津斉彬の改革
④鹿児島に、溶鉱炉の一種反射炉や造船所・ガラス製造所などの工場群集成館を建設
反射炉
大砲製造のための溶鉱炉で、日本初は1850年の肥前(佐賀)藩のもの
島津斉彬
薩摩切子
反射炉
*天井に炎と熱を「反射」、千数度の高温を実現
長州(萩)藩
1833年から村田清風が改革に着手して次の①~③をおこないました。
- 負債140万両を、無利息37年間での返済として棚上げ
- 紙・蠟の専売制を再編成
- 藩営の金融兼倉庫業越荷方を下関に設置
越荷方
下関経由で上方に向かう他藩の船の物産(越荷
)を買い取る、あるいは預かり、上方の相場が高い時点で販売
越荷方
下関経由で上方に向かうルート(図中の青線)
土佐藩
天保期、改革派藩士「おこぜ組」が支出緊縮による財政再建に努めました。
おこぜ組の失脚後、藩主山内豊信(容堂)は新おこぜ組を起用して改革を継続しました。
肥前(佐賀)藩
藩主鍋島直正
が改革に着手して、次の①~③をおこないました。
- 地主の所有地を一部収公・再配分し、零細な百姓を本百姓とする均田制を実施
- 石炭や陶磁器有田焼の専売制を開始
- 洋式軍事工業をいち早く導入し、溶鉱炉の一種反射炉の築造と大砲の鋳造
鍋島直正
肥前藩の大砲製造所
薩長土肥以外の藩
改革に成功した藩
伊達宗城の宇和島藩、松平慶永
(春嶽)の越前藩なども藩政改革に成功しました。
改革に挫折した藩
水戸藩は、藩主徳川斉昭が改革を進めましたが、保守派の反対で挫折
しました。
徳川斉昭
雄藩に追随する幕府
江戸時代末期、雄藩の力が増す中で、幕府も次の①②に取り組みました。
- 代官江川英龍(江川太郎左衛門)に命じて、伊豆韮山に反射炉を築造
- フランス人技師の指導の下、横須賀
製鉄所を設立
- 砲術・洋式の訓練を学ぶ講武所を江戸に設立
- オランダ海軍軍人の指導の下、操船技術を学ぶ海軍伝習所を長崎に設立
江川太郎左衛門
伊豆韮山の反射炉
伊豆