概要
大塩の乱は幕藩体制に大きな爪跡を残し、現体制に対する危機意識が幕府内に生じました。しかし、徳川家斉は将軍職を譲った後も幕政に隠然たる影響力をなお行使し、改革にブレーキをかけていました。そのため家斉の死は、幕政に1つの転機をもたらしました。老中水野忠邦は本格的な改革を開始し、膨れあがった問題に対処しました。
表記について

水野忠邦の登場

前途多難の改革開始

1841年、実権を長く掌握していた11代将軍徳川家斉が死去しました。
12代将軍徳川家慶いえよしのもとで老中水野忠邦ただくにが幕政の中心となりました。
水野忠邦は、享保の改革・寛政の改革に倣った天保の改革と称される改革で、以前にも増して深刻となった“内憂外患”に対処しました。
内憂
風紀の引き締め、農村の再興、財政の再建、幕府権力の再強化
外患
異国船接近に備えた海岸防備の強化

水野忠邦

天保の改革

質素倹約と風俗取締り

倹約令や風俗取締令を発令して、将軍・大奥おおおくも対象に次のことを決めました。

編笠をもつ歌舞伎役者

農村の再興

百姓が出稼ぎ目的に江戸へ流入し、農村の人手不足と荒廃が深刻になりました。
人返しの法を発令して、江戸に流入した貧民の帰郷を強制しました。
田沼意次おきつぐに発案されながら中絶した印旛沼いんばぬま の干拓を再開し、新田開発と水運開設による農村の再興も図りました。

印旛沼干拓の作業

物価騰貴の抑制

原因への誤った対処

物価騰貴の原因は、十組問屋とくみといやなど幕府に公認された仲間株仲間が、上方かみがた市場からの商品流通を独占しているからと考えられました。
物価を引き下げるために、株仲間解散令を発令し、株仲間の解散を命じました。
実際の原因は生産地からの供給不足にあり、解散はむしろ江戸への輸送量を乏しくしました。

騰貴による問題への対処

物価騰貴は、旗本・御家人の生活を圧迫していました。
棄捐令きえんれいを発令して、札差ふださし貸金かしきん 返済の帳消しと低利の貸金を命じました。

海岸防備と救済の失敗

川越藩は相模さがみの海岸防備の負担に苦しみ、領地の移動(転封てんぽう)を嘆願しました。
幕府は願いを聞き入れ、川越藩主の領地を庄内藩に、庄内藩主の領地を長岡藩に、長岡藩主の領地を川越藩に移動しようとしました。
このように3藩を同時に入れ替えることを三方領知(領地)替えと呼びます。
三方領知(領地)替えは、庄内藩の領民の強い反対が起きたことで撤回されました。

三方領知替え

幕府権力の再強化と不満

1843年、徳川家慶は幕府権力の再強化を意図し、日光東照宮の参詣を実行しました。
莫大な費用と人手を要したため、財政悪化と動員された人々の不満を招きました。

最大の失策と水野忠邦の退場

1843年、水野忠邦は財政の再建や対外の防備強化を意図し、上知令を発令して、江戸・大坂周辺の約50万ごくの土地を直轄地にしようとしました。
強い反対によって上知令は撤回されました。
1843年、上知令の撤回を契機に、水野忠邦は退陣させられました。
天保の改革は失敗に終わり、印旛沼の干拓も中止されました。

改革失敗の2つの背景

農村の変化

19世紀初め、北関東の人口は1世紀前と比べて3割減り、田地は荒廃していました。
つまり、農村の年貢米を財政基盤とした幕藩体制は、すでに行き詰まっていました。
19世紀前半、荒廃対応の農業指導者として次の2人が現れました。

二宮尊徳

大原幽学
しかし、農村には多様な商業・職業がすでに広がり、日雇労働で暮らす貧民もいました。
経済に対処しない農村の復興策だけでは、幕藩体制を立て直せませんでした。

経済の変化

18世紀、問屋は、産地に資金・原料を貸与して生産させる問屋制家内工業を始めました。
19世紀、一部の問屋・地主は、作業場を設けてそこに労働者を集め、分担・協力による手作業で生産させる工場制手工業マニュファクチュア)を始めました。
工場制手工業は、尾張の綿織物業、北関東の絹織物業、池田・なだなどの酒造業で見られました。
諸藩は、19世紀の新しい経済活動を取り入れ、次の改革をおこないました。