概要
19世紀前半、江戸を中心に化政文化が成立しました。この時期の教育は、幕末から近世初めに活躍する人材を育てました。様々な人々が、学問を通して尊王攘夷論に影響され、“内憂外患”に対処できない幕府を批判しました。幕府は、“外患”対処に蘭学の有益性を評価・利用する一方、蘭学がかえって幕府への批判を強めることに警戒しました。
化政文化
化政文化とは
18世紀末、11代将軍徳川家斉のもと、老中松平定信が、諸改革寛政の改革のなかで倹約令や出版統制令を発令しました。
文化の発展は、これらの制限により一時停滞しました。
1793~1841年の文化~天保期(大御所時代)、文化は再び発展し始めました。
文化・文政の年号の1字をとり、この時期の文化を化政文化と呼びます。
この文化は次の①②の特色をもちます。
- 幕藩体制の動揺・矛盾に対する、現実的・批判的な精神の展開
- 多種多様な内容で、江戸を中心に国民的な広がり
文化の引き締め
江戸時代の文化
教育機関
新たな私塾の登場
19世紀前半、次の私塾が新設され、幕末から活躍する人物を輩出しました。
私塾
適々斎塾(
適塾)
緒方洪庵が大坂に開いた蘭学の塾で、福沢諭吉・大村益次郎・橋本左内
らを輩出
松下村塾
藩士吉田松陰
の叔父が長州萩に開いた塾で、松蔭のの教育の下、高杉晋作らを輩出
鳴滝塾
オランダ商館医シーボルトが長崎に開いた塾で、1839年の蛮社の獄で処罰された高野長英を輩出
咸宜園
儒学者広瀬淡窓が豊後日田に開いた塾
緒方洪庵
吉田松陰
シーボルト
広瀬淡窓
伝統的な学問と思想
水戸学
19世紀前半、水戸藩では藩主徳川斉昭のもと、下の学者が活躍しました。
この時期の水戸藩の学風水戸学は、特に後期水戸学と区別され、天皇を尊び、異国を撃退する考え尊王攘夷論が展開されました。
水戸学
「“王者”天皇が“覇者(武力での支配者)”将軍に勝る」という尊王斥覇が、前期の考えであり、後期は「異国を撃退する」という攘夷が追加
水戸藩の学者
藤田幽谷・
藤田東湖父子
尊王攘夷論を説き、子東湖は藩政改革にも尽力
会沢安
『新論』を著して尊王攘夷論を説き、藩政改革にも尽力
藤田東湖
会沢安
国学
本居宣長死後の門人平田篤胤は、宣長の研究・思想の継承を自称し、儒教・仏教(儒仏)の影響を受ける前の、日本古来の精神へ戻ることを強く説きました。
平田篤胤は、解明した日本古来の精神を体系化し、復古神道として大成しました。
幕末、復古神道は豪農層や尊王攘夷論者に影響を与え、例えば女性運動家松尾多勢子が現れました。
平田篤胤
経世論
海保青陵
『稽古談
』を著し、商業を軽視する武士の偏見を批判
本多利明
『西域物語』で貿易の必要性を、『経世秘策
』で開国による富国政策を主張
佐藤信淵
『農政本論』『経済要録』を著し、産業の国営化と貿易の振興を主張
蘭学と科学技術
幕府の方針決定
18世紀末、海岸防備の必要性が高まり、地理・天文に対する蘭学の有益性が評価されました。
一方で、蘭学は異国への憧れを育て、幕政の批判へと人を誘惑しがちと警戒されました。
幕府は、民間に委ねずに幕府の手で保護・研究し、その成果も機密にすべきとしました。
地理学
伊能忠敬は、還暦を司る役職天文方の高橋至時
に測地・暦法を学びました。
伊能忠敬は幕府の命令を受け、1800~16年にかけて全国の沿岸を測量し、『大日本沿海輿地全図』の作成にあたりました。
『大日本沿海輿地全図』
日本初の実測による全国海岸線の地図で、伊能忠敬の死後3年の1821年に完成
伊能忠敬
『大日本沿海輿地全図』
天文学
幕府は天文方の高橋至時
に命じて、西洋流の暦寛政暦を作成させました。
1811年、幕府は至時の子で天文方の高橋景保の提唱をうけ、洋書翻訳のための機関蛮書和解御用
を新設し、景保らが翻訳に当たった。
蛮書和解御用
後には洋書で得た知識の教授も担い、蕃書調所と改称
元オランダ通詞志筑忠雄は、『暦象新書』で万有引力説・地動説を紹介し、また、ケンペルの『日本誌』の一部を邦訳し、『鎖国論』と命名
浅草天文台
方針違反への対応
幕府は、蘭学に対する方針(成果の機密・民間研究の禁止)違反に次の弾圧をしました。
- 1828年、シーボルト事件
シーボルトの帰国時、「大日本沿海輿地
全図」などの国外持出が発覚した事件
文献を得るためにシーボルトに地図を贈った天文方の高橋景保は死罪
シーボルト…国外追放後、『日本』を著して西洋に日本を紹介
- 1839年、蛮社の獄
1837年のモリソン号事件や幕府の対外政策への批判を理由に、蘭学を私的に研究していた渡辺崋山・高野長英を処罰した事件
見せしめが目的で、蘭学を学んで幕政批判に傾かないように警告
渡辺崋山
高野長英