インドの統一国家の成立

表記について
概要
前5世紀頃に成立した仏教は、当初順調には広まりませんでした。しかし、マウリヤ朝のアショーカ王が王が仏教に帰依したことで、その教えが少しずつ広まりました。続くクシャーナ朝では、仏教の新たな形として大乗仏教が登場し、その理論が固められていきました。

統一国家の成立

都市国家の誕生

前6世紀頃、南アジアで城壁に囲まれた都市国家がいくつか誕生しました。
コーサラ国、そしてそれを併合したマガダ国が有力となりました。
ガウタマ=シッダールタ
コーサラ国やマガダ国を中心に教化と伝道を実施
コーサラ国・マガダ国
コーサラ国・マガダ国

マウリヤ朝の成立

前4世紀、アレクサンドロス大王がインダス川流域(インド北西部)まで遠征しました。
アレクサンドロス大王の侵入を受け、インドに統一の機運が生じました。
前4世紀末、チャンドラグプタ王が、マガダ国を倒し、インド最初の統一王朝マウリヤ朝を建てました。
チャンドラグプタ王は、マウリヤ朝の首都をパータリプトラに置きました。

マウリヤ朝の最盛期

マウリヤ朝は、アショーカ王の治世下で最盛期を迎えました。
アショーカ王は、征服活動で多くの犠牲者を出したことを悔い、仏教に帰依し、ダルマ(法、社会倫理)による統治を目指しました。
アショーカ王は、仏典結集けつじゅう 編纂へんさん)や多くの布教師を周辺の国々に派遣しました。
アショーカ王時代のマウリヤ朝の領域
アショーカ王時代のマウリヤ朝の領域
アショーカの獅子柱頭
アショーカの獅子柱頭
*インドの国章に採用

大乗仏教の登場

クシャーナ朝(1~3世紀)

マウリヤ朝が衰退すると、インドには多民族が侵入を続けました。
1世紀、イラン系遊牧民クシャーン人がインダス川流域(インド北西部)にクシャーナ朝を建てました。
2世紀半ば、クシャーナ朝はカニシカ王の治世下で最盛期を迎え、現在のアフガニスタンからガンジス川中流域までを支配しました。

クシャーナ朝の交易

クシャーナ朝は交通路の要衝にあり、国際的な経済活動が活発でした。
ローマとの交易が盛んで、大量の金がインドにもたらされ、ローマの貨幣を参考にして大量の金貨が発行されました。
カニシカ王の貨幣
カニシカ王の貨幣

サータヴァーハナ朝(前1~後3世紀)

クシャーナ朝とならんで有力だったのが、サータヴァーハナ朝でした。
サータヴァーハナ朝は、インド北西部からインド南部に勢力をもちました。

サータヴァーハナ朝の交易

サータヴァーハナ朝とローマとの交易もみられました。
クシャーナ朝・サータヴァーハナ朝
クシャーナ朝・サータヴァーハナ朝

大乗仏教

従来の仏教は、厳しい修行をおこなって自身の救済を求めるものでした。
これに対して、自身の救済とともに人々の救済を目指して修行する信仰菩薩信仰が広まりました。
この信仰をもつ者は、自分たちを「(多くの人々を救う)大きな乗り物」という意味で大乗仏教と呼び、従来の仏教に励む人を小乗仏教と蔑称しました
小乗仏教
大乗仏教からの蔑称のため、自らは上座部仏教と自称(「長老の教えを伝える者」の意)

大乗仏教の理論固め

ナーガールジュナ竜樹)は、空の思想で大乗仏教の理論を固めました。
空の思想
全て存在するものは固定的な不変の実体をもたないとする考え

仏教とヘレニズム文化

従来ガウタマ(仏陀)は恐れ多いものとして、具体的な像が造られませんでした。
ヘレニズム文化の影響をうけ、インド北西部のガンダーラを中心に、仏像・仏教美術が生み出されました。