概要
所謂「三国志」の時代を経て、晋が成立しましたが、その滅亡後は非漢民族と漢民族の国々が中国に分立していきました。これらは五胡十六国と総称されます。後に華北は北魏によって統一されましたが、華南の王朝との並立は589年まで解消されませんでした。
三国時代から五胡十六国時代へ
三国時代
3世紀初頭に中国で黄巾の乱が起きて以降、各地に軍事集団が現れ、混乱が生じていました。
220年、曹操の子曹丕が後漢の皇帝から位を譲られ、華北に魏を建国しました。
これをうけ、孫権が長江下流域に呉を、劉備が内陸の四川に蜀を建国しました。
3世紀前半の中国は、魏・呉・蜀が三分する三国時代に入りました。
三国時代
魏の政策
魏では、次の政策・外交がおこなわれました。
- 人材の推薦制度九品中正を導入
- 貧民を集めて国が管理する土地を耕作させる屯田制を導入
- 倭の邪馬台国の卑弥呼が魏に朝貢し、これに「親魏倭王」の称号を授与
分立の終わり
魏が最も優勢になり、蜀を滅ぼしました。
しかし、魏では司馬炎
が国を奪い、265年、魏に替わる晋(西晋)を建てました。
晋
五胡十六国時代
290~306年、
八王の乱
晋の皇帝一族の権力争い
兵力に匈奴などの諸騎馬遊牧民「五胡」を利用したため、騎馬遊牧民の勢力拡大を誘発
乱のなかで晋は匈奴に滅ぼされました。
しかし、皇帝一族の司馬睿が現在の南京にあたる建康で即位し、晋(東晋)を復興させました。
西晋滅亡・東晋復興の混乱のなか、華北には匈奴など五胡が進出し、国家を建国しました。
多くの国家が興亡を繰り返し、それら国家は五胡十六国と総称されます。
騎馬遊牧民の動向
五胡十六国時代まで
前1世紀、匈奴は漢の武帝に敗れた後、東西に分裂しました。
さらに1世紀、匈奴は南北に分裂しました。
匈奴の分裂に乗じて、他の遊牧民の活動も始まりました。
中国から見て、北方に匈奴の一派である羯
が、東北に鮮卑が、西方に氐・羌が勢力を形成しました。
匈奴を含めたこの5つの遊牧民は五胡
と呼ばれ、たびたび中国に侵入しました。
4世紀以降、五胡が華北に進出して国を建てますが長続きせず、諸国が興亡を繰り返す五胡十六国時代に入ります。
五胡十六国の統一
5世紀、鮮卑出身の拓跋氏が建てた北魏の太武帝が、華北を統一しました。
北魏
南北朝時代
北朝
北魏の孝文帝は、次の政策をおこないました。
- 民衆に土地を分与し、耕作させる均田制を開始
- 村落のなかを、5つの家で「隣」、5隣で「里」、5里で「党」とまとめ、それぞれに長を置く三長制を開始
- 鮮卑の服装や言語を禁止し、中国文化を取り入れる漢化政策を推進
- ③を進めるため、洛陽に遷都
北魏は漢化政策への反発で内部分裂し、西魏と東魏に分裂しました。
均田制
後に隋・唐にも継承される制度で、北魏では女性にも土地を分与
西魏は北周に倒され、東魏は北斉に倒されました。
北斉は北周に倒されました。
北魏から北周までの5つの王朝を北朝と呼びます。
南朝
5世紀、東晋の劉裕が実権を握り、東晋に替わる宋を建国しました。
その後、宋に替わって、斉・梁・陳の王朝と順に興亡しました。
宋から陳までの4つの王朝を南朝と呼びます。
南北朝時代