内陸・東アジア世界の変動

表記について
概要
6世紀以降、トルコ系遊牧民の活動が中央アジアで顕著となりました。オアシス地域にトルコ語が広まり、トルコ化が進みました。トルコ系遊牧民自身にもイスラーム化という変化が起こり、10世紀にイスラーム国家を建設します。
同じ頃、東アジアでは唐が滅亡して文化圏の結合がゆるみ、各地に特色をもつ国家が成立しました。10世紀以降、中国北部に契丹・西夏・金などの勢力がおこり、中国本土を圧迫しました。
目次
  1. トルコ化とイスラーム化
    1. トルコ系遊牧民の活動
    2. ソグド人の商業活動
    3. トルキスタン
    4. トルコ系遊牧民のイスラーム化
    5. 最初のトルコ系イスラーム王朝
  2. 東アジアの変革
    1. 唐の滅亡後
    2. 中国の港
  3. 中国北方の諸勢力
    1. 契丹
    2. タングート
    3. 女真

トルコ化とイスラーム化

トルコ系遊牧民の活動

突厥

6世紀、トルコ系遊牧民(トルコ人)突厥とっけつ が、モンゴル系遊牧民柔然じゅうぜん を滅ぼしました。
6世紀、突厥はホスロー1世 の治世下のササン朝 と結び、エフタル を滅ぼしました。
結果、中央アジア 一帯を支配する国家を形成しました。
6世紀末、突厥は東西に分裂しました
突厥の活躍は隋・唐と同時代
ユーラシア大陸の三大勢力(6世紀)
ユーラシア大陸の三大勢力(6世紀)

ウイグル

744年、トルコ系遊牧民ウイグルが、突厥を滅ぼし、北アジアのモンゴル高原に進出しました。
また、ウイグルは、755~763年に唐で起きた安史の乱 には、援軍を送って鎮圧を助けました。
840年、ウイグルはトルコ系遊牧民キルギス の侵入を受けて滅亡しました。
分散したウイグルの一部は、中央アジアに移動して定住生活を送りました。

ソグド人の商業活動

絹の道

ソグド人は、サマルカンド・ブハラを拠点として 、内陸アジアを舞台とする通商活動をおこないました。
ソグド人は、突厥・ウイグルの保護をうけ、ユーラシア大陸の東西を結ぶ交易路オアシスの道を築きました。
オアシスの道は中国の生糸・絹を西方にもたらし、絹の道(シルク=ロード)とも呼ばれました。

文字

ソグド文字に由来するウイグル文字がつくられました。
後のモンゴル文字や満州文字の基となりました。

トルキスタン

北アジアにいたウイグルが、唐末以降中央アジアに移住し、この地方にトルコ語が普及しました
トルコ化したこの地域は、ペルシア語で「トルコ人の地域」を意味するトルキスタンと呼ばれました。
トルキスタンは、パミール高原を境に東西に分けられます。
西トルキスタンでは、後にイラン系のサーマーン朝がイスラームを広めました

トルコ系遊牧民のイスラーム化

751年、タラス河畔の戦い
アッパーズ朝が唐の軍隊を破った戦い
アラブ人が中央アジアに進出すると、トルキスタンのオアシス地域でイスラーム化が始まりました。
9世紀、イラン系の イスラーム国家サーマーン朝 が西トルキスタンに建国されました。
サーマーン朝は、西トルキスタンにイスラームを広め 、トルコ人のイスラーム化が進みました。

最初のトルコ系イスラーム王朝

10世紀、最初のトルコ系のイスラーム王朝カラ=ハン朝 が、東トルキスタンで 成立しました。
10世紀末、カラ=ハン朝が、西トルキスタンのサーマーン朝 を滅ぼし、東・西トルキスタンをあわせました。
カラ=ハン朝の下で、さらにトルコ人のイスラーム化が進みました

東アジアの変革

唐の滅亡後

9世紀のウイグルの四散、10世紀の唐の滅亡は、東アジアの勢力を一斉に交代させました。

モンゴル高原

9世紀、モンゴル高原のウイグルが、キルギスによって四散しました。
交代する形で、モンゴル系遊牧民契丹きったん がモンゴル高原で勢力を拡大しました。
唐の滅亡後、契丹きったんが国を建てました。
10世紀、契丹は東にあった渤海ぼっかいを滅ぼしました。

朝鮮半島

10世紀、王建 が高麗を建て、開城を都としました。
高麗では仏教が栄え、仏教経典を集成した『大蔵経だいぞうきょう 』が活版印刷によって 刊行されました。
また、宋で確立した青磁せいじの技法が、高麗 青磁という独特の様式に結実しました。

中国南西部(雲南)

10世紀、雲南では南詔なんしょう が滅亡し、大理だいり が成立しました。

ベトナム

10世紀後半、中国の支配を離れ、独立国家が現れました。
11世紀、李公蘊りこううん大越国だいえつこく (李朝)を建国しました。

中国の港

唐の滅亡から宋の建国までの、短命な王朝が次々に交替し、小国が分立するこの時代を五代十国時代と言います。
979年、宋が中国を統一し、五代十国時代を終わらせました。
宋の時代には、周辺国との朝貢関係が衰えた反面、民間での交易が活発化しました。
交易では中国の銅銭・陶磁器が取引されました。
広州 ・泉州・明州 寧波ニンポー)などの港では、市舶司しはくし が海上交易の管理をおこないました。

中国北方の諸勢力

契丹

9世紀、モンゴル系遊牧民の契丹が、モンゴル高原で勢力を拡大しました。
10世紀初め、耶律阿保機やりつあぼき が東モンゴルを中心に国家契丹(のちの国号はりょう )を建国しました。
926年、耶律阿保機のもとで契丹は渤海ぼっかい を滅ぼしました。
契丹
民族名かつ国家名で、後晋を滅ぼした翌年に国号を中国風の遼と変更

華北への進出

契丹は中国への進出を図りました。
契丹は五代の後晋の建国を助け、見返りとして燕雲えんうん十六州 を獲得しました。
のちに契丹は後晋を滅ぼし、947年、国号を中国風の遼と称しました。
宋(北宋)の成立後、契丹(遼)は華北に侵入しました。
1004年、契丹(遼)は宋(北宋)と澶淵せんえんの盟 を結び、毎年 20万匹と 10万両を送らせることを約束させました。
宋はこの条約締結後、西夏との間にも類似の和約を締結
布の長さの単位で、1匹は約9.4m
重さの単位で、1両は約16g

滅亡後

1125年、契丹(遼)は金・宋(北宋)に滅ぼされました。
契丹(遼)の皇族耶律大石やりつたいせき は、中央アジアに逃れて西遼 カラ=キタイ)を建てました。

遊牧民と農耕民の二重支配

契丹の支配下には、モンゴル高原の遊牧民、華北の農耕民である漢民族がいました。
そのため契丹では、遊牧民には部族制、農耕民には州県制をといった区別を設けました
性格の異なる社会を異なる制度の下で支配する二重統治体制 が採られました。

文字

契丹文字は、ウイグル文字と漢字の 影響を受けています。

タングート

11世紀、チベット系のタングートの李元昊りげんこう が皇帝と称して、西夏せいかを建てました。
西夏は宋(北宋)にたびたび侵入しました。
1044年、澶淵の盟に類似した和約を宋と結び、毎年絹と銀を送らせることを約束させました。

女真

契丹(遼)からの独立

10世紀以後、ツングース系の 女真は契丹(遼)の支配下で半猟・半農の生活を営んでいました
12世紀、女真の完顔阿骨打わんやんあぐだ が金を建てました。

華北への進出

1125年、金は宋(北宋)と結んで契丹(遼)を滅ぼしました
契丹(遼)の滅亡後、金は宋(北宋)と争い、その都開封かいほう を陥落させ、淮河以北の華北を支配しました
開封
黄河と大運河が合流する交通の要衝に位置
金では、猛安もうあん謀克ぼうこく という軍事・行政制度が採用されていました。
女真には猛安・謀克を維持し、支配下においた華北の漢民族には宋の州県制を継承しました。

女真文字

女真では独自の女真文字がつくられました。