内陸・東アジア世界の変動

表記について
概要
6世紀以降、トルコ系遊牧民の活動が中央アジアで顕著となりました。オアシス地域にトルコ語が広まり、トルコ化が進みました。トルコ系遊牧民自身にもイスラーム化という変化が起こり、10世紀にイスラーム国家を建設します。
同じ頃、東アジアでは唐が滅亡して文化圏の結合がゆるみ、各地に特色をもつ国家が成立しました。10世紀以降、中国北部に契丹・西夏・金などの勢力がおこり、中国本土を圧迫しました。

トルコ化とイスラーム化

トルコ系遊牧民の活動

突厥

6世紀、トルコ系遊牧民(トルコ人)突厥とっけつ が、モンゴル系遊牧民柔然じゅうぜん を滅ぼしました。
6世紀、突厥はホスロー1世 の治世下のササン朝 と結び、エフタル を滅ぼしました。
結果、中央アジア 一帯を支配する国家を形成しました。
6世紀末、突厥は東西に分裂しました
突厥の活躍は隋・唐と同時代
ユーラシア大陸の三大勢力(6世紀)
ユーラシア大陸の三大勢力(6世紀)

ウイグル

744年、トルコ系遊牧民ウイグルが、突厥を滅ぼし、北アジアのモンゴル高原に進出しました。
また、ウイグルは、755~763年に唐で起きた安史の乱 には、援軍を送って鎮圧を助けました。
840年、ウイグルはトルコ系遊牧民キルギス の侵入を受けて滅亡しました。
分散したウイグルの一部は、中央アジアに移動して定住生活を送りました。

ソグド人の商業活動

絹の道

ソグド人は、サマルカンド・ブハラを拠点として 、内陸アジアを舞台とする通商活動をおこないました。
ソグド人は、突厥・ウイグルの保護をうけ、ユーラシア大陸の東西を結ぶ交易路オアシスの道を築きました。
オアシスの道は中国の生糸・絹を西方にもたらし、絹の道(シルク=ロード)とも呼ばれました。

文字

ソグド文字に由来するウイグル文字がつくられました。
後のモンゴル文字や満州文字の基となりました。

トルキスタン

北アジアにいたウイグルが、唐末以降中央アジアに移住し、この地方にトルコ語が普及しました
トルコ化したこの地域は、ペルシア語で「トルコ人の地域」を意味するトルキスタンと呼ばれました。
トルキスタンは、パミール高原を境に東西に分けられます。
西トルキスタンでは、後にイラン系のサーマーン朝がイスラームを広めました

トルコ系遊牧民のイスラーム化

751年、タラス河畔の戦い
アッパーズ朝が唐の軍隊を破った戦い
アラブ人が中央アジアに進出すると、トルキスタンのオアシス地域でイスラーム化が始まりました。
9世紀、イラン系の イスラーム国家サーマーン朝 が西トルキスタンに建国されました。
サーマーン朝は、西トルキスタンにイスラームを広め 、トルコ人のイスラーム化が進みました。

最初のトルコ系イスラーム王朝

10世紀、最初のトルコ系のイスラーム王朝カラ=ハン朝 が、東トルキスタンで 成立しました。
10世紀末、カラ=ハン朝が、西トルキスタンのサーマーン朝 を滅ぼし、東・西トルキスタンをあわせました。
カラ=ハン朝の下で、さらにトルコ人のイスラーム化が進みました

東アジアの変革

唐の滅亡後

9世紀のウイグルの四散、10世紀の唐の滅亡は、東アジアの勢力を一斉に交代させました。

モンゴル高原

9世紀、モンゴル高原のウイグルが、キルギスによって四散しました。
交代する形で、モンゴル系遊牧民契丹きったん がモンゴル高原で勢力を拡大しました。
唐の滅亡後、契丹きったんが国を建てました。
10世紀、契丹は東にあった渤海ぼっかいを滅ぼしました。

朝鮮半島

10世紀、王建 が高麗を建て、開城を都としました。
高麗では仏教が栄え、仏教経典を集成した『大蔵経だいぞうきょう 』が活版印刷によって 刊行されました。
また、宋で確立した青磁せいじの技法が、高麗 青磁という独特の様式に結実しました。

中国南西部(雲南)

10世紀、雲南では南詔なんしょう が滅亡し、大理だいり が成立しました。

ベトナム

10世紀後半、中国の支配を離れ、独立国家が現れました。
11世紀、李公蘊りこううん大越国だいえつこく (李朝)を建国しました。

中国の港

唐の滅亡から宋の建国までの、短命な王朝が次々に交替し、小国が分立するこの時代を五代十国時代と言います。
979年、宋が中国を統一し、五代十国時代を終わらせました。
宋の時代には、周辺国との朝貢関係が衰えた反面、民間での交易が活発化しました。
交易では中国の銅銭・陶磁器が取引されました。
広州 ・泉州・明州 寧波ニンポー)などの港では、市舶司しはくし が海上交易の管理をおこないました。

中国北方の諸勢力

契丹

9世紀、モンゴル系遊牧民の契丹が、モンゴル高原で勢力を拡大しました。
10世紀初め、耶律阿保機やりつあぼき が東モンゴルを中心に国家契丹(のちの国号はりょう )を建国しました。
926年、耶律阿保機のもとで契丹は渤海ぼっかい を滅ぼしました。
契丹
民族名かつ国家名で、後晋を滅ぼした翌年に国号を中国風の遼と変更

華北への進出

契丹は中国への進出を図りました。
契丹は五代の後晋の建国を助け、見返りとして燕雲えんうん十六州 を獲得しました。
のちに契丹は後晋を滅ぼし、947年、国号を中国風の遼と称しました。
宋(北宋)の成立後、契丹(遼)は華北に侵入しました。
1004年、契丹(遼)は宋(北宋)と澶淵せんえんの盟 を結び、毎年 20万匹と 10万両を送らせることを約束させました。
宋はこの条約締結後、西夏との間にも類似の和約を締結
布の長さの単位で、1匹は約9.4m
重さの単位で、1両は約16g

滅亡後

1125年、契丹(遼)は金・宋(北宋)に滅ぼされました。
契丹(遼)の皇族耶律大石やりつたいせき は、中央アジアに逃れて西遼 カラ=キタイ)を建てました。

遊牧民と農耕民の二重支配

契丹の支配下には、モンゴル高原の遊牧民、華北の農耕民である漢民族がいました。
そのため契丹では、遊牧民には部族制、農耕民には州県制をといった区別を設けました
性格の異なる社会を異なる制度の下で支配する二重統治体制 が採られました。

文字

契丹文字は、ウイグル文字と漢字の 影響を受けています。

タングート

11世紀、チベット系のタングートの李元昊りげんこう が皇帝と称して、西夏せいかを建てました。
西夏は宋(北宋)にたびたび侵入しました。
1044年、澶淵の盟に類似した和約を宋と結び、毎年絹と銀を送らせることを約束させました。

女真

契丹(遼)からの独立

10世紀以後、ツングース系の 女真は契丹(遼)の支配下で半猟・半農の生活を営んでいました
12世紀、女真の完顔阿骨打わんやんあぐだ が金を建てました。

華北への進出

1125年、金は宋(北宋)と結んで契丹(遼)を滅ぼしました
契丹(遼)の滅亡後、金は宋(北宋)と争い、その都開封かいほう を陥落させ、淮河以北の華北を支配しました
開封
黄河と大運河が合流する交通の要衝に位置
金では、猛安もうあん謀克ぼうこく という軍事・行政制度が採用されていました。
女真には猛安・謀克を維持し、支配下においた華北の漢民族には宋の州県制を継承しました。

女真文字

女真では独自の女真文字がつくられました。