概要
概要
隋・唐の時代には、中央集権退勢が強化され、貴族層は魏晋南北朝時代に比べると大きく勢力を後退させたが、しかし、なお大きな政治・社会的勢力を保持していました。そうした意味で、隋・唐の時代は貴族政治の末期・終焉期としてもとらえることができます。また、隋・唐の隆盛は日本を含む東アジア周辺諸国に大きな影響を与え、諸国の国家形成に大きな役割を果たしました。
隋の隆盛
中国の再統一
北朝の北周の軍人であった楊堅(文帝)は、581年、隋を建国しました。
南朝の陳を倒し、南北に分裂していた中国を統一しました。
隋の政策
文帝と子の煬帝は、次の①~⑤の政策に取り組みました。
隋の滅亡
文帝の子煬帝
の時、江南と華北を結ぶ大運河が完成しました。
しかし、土木事業や高句麗への遠征は農民を苦しめました。
反乱が起き、618年、隋は滅亡しました。
隋の大運河(一部)
唐の隆盛
3代皇帝高宗までの政治
618年、李淵は隋を倒して唐を建国しました。
唐は長安を都としました。
2代皇帝太宗(李世民)は、唐の基礎を固め、その政治は貞観の治と呼ばれました。
3代皇帝高宗は新羅を援助し、百済と高句麗を破りました。
征服地には都護府を置き、唐の最大領土を実現しました。
なお、征服地の統治は、服属した諸民族の長にまかせる羈縻
政策を採りました。
羈縻
現地の長に統治をまかせ、「ゆるくつなぎとめておく」の意
唐
唐の制度
法体系
唐は、今日の刑法に相当する律
と、今日の行政法・民法などに相当する令をつくりあげました。
また、律令を修正する格と、律令をより細かく説明する式もつくられました。
これら律令に基づき運営する国家を律令国家と呼びます。
律令などの制度や文化が、朝鮮半島の新羅や日本に伝えられました。
官制
中央には、政治機構三省・六部
と、そこで働く官吏を監察する御史台
が設けられました。
三省六部
地方には、州・県の行政単位で統治する州県制をしきました。
土地・税制度
唐では次の①②の制度を実施し、農民による均質な生産・納税で国家を支えようとしました。
均田制
成人男性に土地が支給されるが、妻(女性)には支給なし
高級官吏の大土地所有は認められたので、彼らは私有の土地荘園を形成していきました。
農民は荘園の耕作をさせられ、唐の当初の土地制度は次第に崩壊しました。
徴兵制度
西魏の時代に始まった徴兵制度府兵制が採用されました。
唐の文化
首都-長安
唐の首都長安は、広大な計画都市として造営されました。
特筆すべきことは、次の通りです。
- 中央の大通りを軸とする東西対称の都市として建設
- アジア各地の首都建設のモデル(日本の平城京・平安京、渤海の上京竜泉府の都城などに影響)
- アジア各地から留学生や留学僧、長江使節が訪問(日本からは遣唐使が訪問)
- 仏教寺院・道教寺院のほか、景教(ネストリウス派キリスト教)の寺院やゾロアスター教の寺院を築造
長安がかなりの国際都市であったことは、墓に納められた当時の陶器唐三彩
からも分かります。
ラクダの上に胡人(ソグド人など西方の人々)が乗っている像などが良い例です。
唐三彩
港町
ムスリム商人が海路にて中国を訪れ、揚州や中国南部の泉州・広州
などの港町が発展しました。
仏教
仏教が保護をうけて栄え、次の人物たちが活躍しました。
- 玄奘
ヴァルダナ朝の王ハルシャ=ヴァルダナの時代のインドに西域経由の
陸路でわたり、ナーランダ僧院で学んだ後に仏教の大量の仏典を持って帰国
この旅の記録が『大唐西域記』
明の時代に完成した小説『西遊記』のモデル
- 義浄
ヴァルダナ朝滅亡後のインドに海路でわたり、ナーランダ僧院で学んだ後に仏典を持って帰国
中国の仏教に大きな影響を与え、浄土宗や禅宗など中国独特の宗派が形成されました。
玄奘
官吏登用試験-科挙
隋の時代に始まった官吏試験科挙では儒学が重視され、唐の太宗は孔穎達らに命じて五経の注釈書である『五経正義』を編纂させました。
唐の高級官吏となった遣唐使―阿倍仲麻呂
阿倍仲麻呂は幼少の頃から学問に優れ、19歳の時に第8回遣唐使に同行しました。唐の最高学府で学んだ後、科挙の中でも超難関の進士科を受験して合格しました。科挙という狭き門に留学生として合格するのは異例中の異例です。仲麻呂は皇帝玄宗に仕え、その側近となるほど出世していきます。杜甫・李白とも交流をもち、唐の文化人としても活躍します。やがて仲麻呂は望郷の念にかられ、帰国にしようとしますが、乗船した船が遭難を繰り返し、ついに帰国の夢をかなえることなく生涯を閉じました。仲麻呂が詠んだ歌に「天の原
ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」とあり、ふるさとを思う気持ちが伝わってきます。
その他
詩
杜甫や李白、そして『長恨歌』で知られる白居易などの詩人が活躍しました。
科挙で詩作が問われたため、彼らは名声を博しました。
文章
韓愈・柳宗元が、対句や韻など形式を重視する四六駢儷体を批判し、古文復興を主張しました。
書・絵画
呉道玄が山水画を描き、また、顔真卿が優れた書風を生みました。
唐の動揺・滅亡
唯一の女性皇帝
7世紀末、高宗の皇后則天武后
が帝位につきました。
則天武后は唐の国号を周と改めました。
科挙で積極的に官吏を登用する一方で、その権力で政治の混乱を招きました。
晩節を汚した皇帝
開元の治
8世紀初め、皇帝玄宗
は、則天武后以来混乱していた唐の再興に努めました。
玄宗の政治は、貞観の治と並び称され、「
開元の治」と呼ばれます。
この時代には貧富の差が開き、また、均田制・租庸調制・府兵制が崩れていました。
玄宗は、傭兵をもちいる募兵制を採用し、その指揮官節度使に辺境の防備をまかせました。
傾国の美女
治世の後半、玄宗は楊貴妃
を寵愛し、政治を考えなくなりました。
楊貴妃の一族が実権を握り、政治が混乱しました。
751年、
タラス河畔の戦い
唐の軍隊がアッパーズ朝に大敗した戦いで、唐の対外的な退勢を示す出来事
唐の捕虜によって製紙法がイスラーム世界に流入
755~763年、
安史の乱
楊貴妃の一族に反発し、節度使の安禄山とその部下が起こした反乱
ウイグルの援軍を得てようやく鎮圧
唐の統制力が弱まり、有力な節度使は各地で勢力を拡大し、藩鎮と呼ばれました。
唐の滅亡
780年、唐の宰相楊炎
は、次の2つを実施して財政を再建しました。
875~884年、
黄巣の乱
塩の密売取締りに反発し、密売人の黄巣が起こした反乱
反乱に加わった朱全忠が、唐に寝返り、節度使に任じられて鎮圧
907年、唐は朱全忠によって滅ぼされました。
唐の滅亡と交易
唐の衰退・滅亡をうけ、中国商人は西方との交易にジャンク船
を用いて参加しました。
ジャンク船
五代十国
交替と分裂の時代
朱全忠は、開封を都として後梁を建国しました。
以後の華北では、約50年間5つの王朝が交替し、他の地域でも10余りの国興亡しました。
唐の滅亡から宋の建国までの、短命な王朝が次々に交替し、小国が分立するこの時代を五代十国時代と言います。
五代十国時代には、貴族が没落していき、かわりに新興地主層が勢力を伸ばしました。
新興地主層は、集めた土地を佃戸
と呼ばれる小作人に貸して耕作させ、小作料をとって経済力をつけました。
新興地主層が土地を所有し、佃戸が耕作するという関係は、宋の時代でも続きました。