朝鮮半島と日本列島の国家形成

表記について
概要
中国周辺の諸民族の活動の活発化は、中国の北方のみならず東方でもみられ、朝鮮半島や日本列島では新しい国家が形成されました。新興国家の支配者は、中国の王朝の後ろ盾を得ることによって自らの力を強めようとし、中国の王朝への朝貢を積極的におこないました。

新興国家と中国の王朝

朝貢・冊封

新興国家の支配者は、自らの支配力を強めるために、中国の王朝を頼りました。
例えば、中国の王朝との関係を示す称号・役職の獲得を欲したのです。
そのため、中国の王朝へ定期的に貢物みつぎものを贈る朝貢がおこなわれました。
冊封さくほう
朝貢に対して中国の王朝が称号・役職を与えること
朝貢・冊封
朝貢・冊封

朝鮮半島の国家形成

朝鮮半島北部

前1世紀、中国東北の南部に高句麗がおこりました。
4世紀、高句麗は南下し、楽浪郡を滅ぼして朝鮮半島北部を支配しました。

朝鮮半島南部

4世紀、朝鮮半島南部の東側に新羅、西側に百済、南側に加羅(任那)が成立しました。
4世紀の朝鮮半島

日本列島の国家形成

3世紀、日本列島は多くの小国に分かれていました。
そのなかで、有力な小国の邪馬台国やまたいこくの女王卑弥呼が、に朝貢使節をおくり、「親魏倭王」の称号を与えられました。
邪馬台国
『三国志』の一部分(通称『魏志』倭人伝)に国の様子が記述されるが、位置などは論争中
4世紀、広域の連合体ヤマト政権が日本列島に生じ、統一が進みました。
4世紀末、ヤマト政権は加羅や百済を助け、高句麗と争いました。
5世紀、このヤマト政権の5人の王(倭の五王)が中国の南朝に使者をおくり、称号・役職を求めました。
好太王碑
4世紀末のヤマト政権と高句麗の争いを記す石碑
倭の五王の系譜
倭の五王