大戦中・大戦後の東アジア

表記について
概要
第一次世界大戦中の1915年、日本が大戦後のドイツの権益継承など二十一ヵ条の要求を中国に認めさせました。中国では反日感情が高まり、五・四運動が広がりました。また、日本の支配下にあった朝鮮半島では、ロシア革命や東欧の民族自決に影響されて、三・一独立運動が広がりました。

第一次世界大戦中の東アジア

五・四運動の思想的基盤

第一次世界大戦中、中国では旧来の文体・儒教を批判し 、口語文学の提唱や民主主義の主張へ発展した思想運動文学革命 新文化運動 )が始まりました。
この運動は、1919年の五・四運動に影響を与え、思想的基盤になりました。

文学革命の主導者

陳独秀ちんどくしゅう
新青年 』を創刊し、「民主と科学」をスローガンに儒教道徳を批判
後に李大釗りたいしょう 共産党を設立
胡適こせき(こてき)
1917年、『新青年』上で白語(口語)による文学 (白話文学)を提唱
魯迅ろじん
小説『狂人日記 』『阿Q正伝 』で自国民の心理の暗黒面を表現
口語
日常的な生活の中で会話で用いられる言葉遣い
儒教批判
儒教が旧体制の封建制の精神的支柱になっていると考えられたため

日本の参戦

ドイツ権益継承の狙い

第一次世界大戦において、日本は日英同盟 を理由に参戦しました。
参戦した日本は、中国の山東半島青島 (ドイツ租借地膠州湾)と太平洋のドイツ領南洋諸島 を占領しました。
1915年、二十一ヵ条の要求
大戦後のドイツ権益の継承を、事前に中国に約束させた日本の 要求
袁世凱 政権が要求の一部を承認すると、中国で対日感情が急速に悪化

シベリア出兵

大戦末期、日本はシベリア出兵 対ソ干渉戦争)に参加しました。

大戦後の東アジア

朝鮮

日本統治下の朝鮮では、ロシア革命や東欧の民族自決に影響されて、独立への要求が高まりました。
1919年3月1日、三・一独立運動
日本の植民地支配からの独立を求めた朝鮮の民族運動
運動の鎮圧後、日本は以前の武力を前面に出した強圧的な姿勢武断政治 を廃止

中国

パリ講和会議に参加した中華民国は、日本の二十一ヵ条の要求の取り消しや、ドイツ権益の返還を訴えました。
中華民国の訴えは、講和会議で退けられました
1919年5月4日、五・四運動
山東半島のドイツ 利権の日本による継承を認めたパリ講和会議の決定を契機とする北京大学の学生抗議デモから始まった 中国の民族運動

日本

日本は、パリ講和会議で次のドイツ権益と旧領地の継承が認められました。
さらに、国際連盟の常任理事国となり、国際的な地位を向上させました。
日本の勢力伸長は、欧米諸国から警戒されました。
1921~22年、ワシントン会議がアメリカの提唱で開催され、次の条約で日本の勢力抑制が図られました。