文化史(明治~現代)

表記について

文明開化

思想

儒学・神道の考え方や慣習が排斥され、自由主義・個人主義などの西洋思想が流入しました。
人は生まれながらに自由・平等で、幸福追求の権利をもつという天賦てんぷ 人権思想は、後の自由民権運動にも大きな影響を与えました。

思想家

福沢諭吉
緒方洪庵の適塾で学び、3度の欧米巡歴で西洋の文明にふれた人物
欧米紹介書『西洋事情』、学問の啓蒙書『学問のすゝめ』、日本と西洋の文明を論ずる『文明論之概略ぶんめいろんのがいりゃく

福沢諭吉
中村正直まさなお
個人主義を説くスマイルズの『自助論』の翻訳書『西国立志編』、功利主義を説くミルの『自由論』の翻訳書自由之ことわり

中村正直
中江兆民
ルソーの『社会契約論』の一部漢訳『民約訳解』を著した人物

教育

1871年、文部省が新設され、教育・学芸関連を司りました。
1872年、フランスに倣った学校制度の法令学制を公布し、序文「被仰出書おおせいだされしょ」で「学問は身を立てる財本」と立身出世主義を強調しました。
全国を大・中・小の3段階の学区に分け、小学区に初等教育機関小学校を置きました。
国民皆学を目指す理想が現実と乖離かいりし、就学率は、授業料の徴収などを理由に低いものでした。

小学校の就学

授業風景

長野県の旧開智小学校

高等教育機関

東京大学
1877年、東京開成学校・東京医学校を統合し、創設された官立大学
師範学校
教員養成を目的として創設された学校(女子師範学校も存在)

私学

慶応義塾
1868年、福沢諭吉が江戸の蘭学塾を移動・改称した私塾
同志社
1875年、新島襄にいじまじょう キリスト教による教育を目指した私塾

宗教

神道の純化と国教化

新政府は、宗教権威者(天皇)が政治権力者を兼ねる「祭政一致」の立場をとりました。
1868年、神仏分離令制定
神道の国教化を目的として、神道の純化のために神仏習合を禁じた法令
堕落した僧侶への怒りから、仏教を排斥する行動廃仏毀釈はいぶつきしゃく が全国で発生

廃仏毀釈

廃仏毀釈で頭部を破壊された石仏
1870年、大教宣布たいきょうせんぷ みことのり発布
神道の国教化の方針を示し、これに沿った神社制度・祝祭日などを制定させた詔
祝祭日には、紀元節(神武天皇即位の2月11日)、天長節(明治天皇誕生の11月3日)などを制定

キリスト教の黙認

新政府は、江戸幕府同様の禁教政策をとり、隠れキリシタンを迫害しました。
1868~73年、浦上信徒うらかみしんと弾圧事件
長崎浦上のキリシタンが公然と信教を表明し、新政府に捕らえられた事件
新政府欧は米列強に抗議され、1873年、禁教の高札を撤廃してキリスト教を黙認

浦上天主堂

新聞と雑誌

1873年、洋学者らが啓蒙的思想団体明六社めいろくしゃ を組織し、機関誌『明六雑誌』を出版して西洋思想の普及に努めました。
明六社
参加者は、森有礼・西周・福沢諭吉・加藤弘之・中村正直・西村茂樹など

明六雑誌

暦法

太陽暦を採用し、1日を24時間、1週間を7日と定めました(民衆は旧暦の使用を継続)。

世相


銀座

明治の文化

思想

西洋文化と日本文化

条約改正を目的に、1882年から外相井上かおる 欧化政策が始まり、また、欧化政策を肯定する思想欧化主義も生じました。
鹿鳴館外交に代表される極端で上からの欧化政策は、激しい反発を招きました。

鹿鳴館外交
上からの欧化政策に対する反発から、民権論に立つ次の思想が形成され、また、互いに対立しました。
平民平民的欧化)主義
一般国民(平民)の手による欧化の推進を目指す思想
徳富蘇峰とくとみそほう民友社を設立し、機関誌『国民之友』で提唱
Ⓑ近代的民族主義
西洋の模倣ではなく、日本の固有性に根差した発展を目指す思想の総称

欧化主義と反発

徳富蘇峰

近代的民族主義

次の思想が、近代的民族主義と総称されました。

陸羯南

日清戦争後の思想転換

高山樗牛ちょぎゅうは、雑誌『太陽』で、日本建国の精神の発揮と日本の大陸進出を目指す思想日本主義を唱えました。

高山樗牛
日清戦争後、徳富蘇峰や陸羯南は国権論に傾き、日本の対外進出を肯定しました。
個人の利益よりも国家の利益を優先する思想国家主義が、思想界の主流となりました。

達成感と燃え尽き

日露戦争の勝利は、人々に大きな達成感を与えた反面、国家主義への疑問も抱かせました。
1908年、政府は、勤倹節約と皇室尊重を国民に求める戊申詔書を発し、列強の一員としての日本を支える国民の道徳強化に努めました。

信教

神道

明治時代初め、新政府は神道の国教化を試みましたが、十分な成果をあげられませんでした。
一方、政府の公認を受けた民間の神道教派神道は、庶民の間にかなり広まりました。

仏教

1868年、神仏分離令制定
神道の国教化を前提として、神道の純化のために神仏習合を禁じた法令
堕落した僧侶への怒りから、仏教を排斥する行動廃仏毀釈はいぶつきしゃく が全国で発生
仏教の勢力は廃仏毀釈で弱まりましたが、島地黙雷しまじもくらい のように信教の自由を説く者の活躍で、次第に勢力を回復していきました。

キリスト教

次の外国人教師、所謂いわゆるお雇い外国人の影響で、キリスト教が知識人に広まりました。
日本人の信徒のなかからは、札幌農学校で学んだ内村鑑三・新渡戸稲造や、熊本バンドに参加した海老名弾正が現れ、人々の心をとらえました。
キリスト教会は、売春廃止に取り組む運動廃娼はいしょう運動をおこないました。

ヘボン

クラーク

学校体系の整備

1872年公布の学制の下、小学校教育の普及が進められました。
結果、義務教育の就学率は次第に高まりました。
しかし、地方の実情を無視した画一的な強制には、批判の声もありました。

就学率
1879年、教育令公布
アメリカの教育制度を参考に、学制を改正した法令
①全国画一の学区制を止め、小学校設置を町村の自由裁量に変更
②小学校管理を地方に移管し、就学義務を緩和
1880年、教育令改正
強制から放任への転換が混乱を招いたため、政府の権限を強化
1886年、学校令公布
1886年の学校制度に関する法令の総称
文部大臣森有礼もりありのり のもとで公布
唯一の官立大学であった東京大学帝国大学に改組
尋常じんじょう小学校年間が義務教育
学校令
帝国大学令・師範学校令・中学校令・小学校令の総称
1900年の義務教育の授業料廃止で、1902年の平均就学率は90%超え
1907年の小学校令の改正で、義務教育年制成立

国家のための教育

教育政策は、次第に思想統制の役割を強め、次のことが取り組まれました。

教育勅語

教育勅語の重さ

1891年、内村鑑三不敬事件
キリスト教徒内村鑑三が、講師を務める中学校の教育勅語奉読 ほうどく式で、天皇署名のある勅語に向かって単なる敬礼で済ませ、世の攻撃を受けた事件
内村鑑三は、最敬礼などの礼拝行為が、天皇を神に祭り上げてしまうと拒否

内村鑑三

高等教育機関の拡充

私立学校

民間では、次のような私立学校が創立され、官立とは異なる学風を誇りました。

諸分野の発展

法学

フランスのボアソナードが招かれ、法典の整備が進みました。
民法典論争を契機に、ドイツの法学が主流となりました。

日本史・日本文学

田口卯吉
日本開化小史』を著し、文明史論を展開した人物
東京帝国大学史料編纂がかり
『大日本史料』『大日本古文書』などの編纂所
モース
大森貝塚を発見したアメリカ人

モース

自然科学

北里柴三郎きたざとしばさぶろう
破傷風はしょうふう血清療法とペスト菌を発見した人物
福沢諭吉の援助をうけ、伝染研究所を設立
志賀潔しがきよし
赤痢せきり菌を発見した人物
鈴木梅太郎
オリザニン(ビタミンB1)の抽出に成功した人物
高峰譲吉
アドレナリンを抽出し、また、タカジアスターゼ創製した人物
長岡半太郎
原子模型を研究した人物

北里柴三郎

鈴木梅太郎

科学と伝統の衝突

1891年、帝国大学教授久米邦武くめくにたけ は、「神道は祭天の古俗」と論じ、神道が自然崇拝(アニミズム)に過ぎず、教えのある宗教ではないとしました。
久米邦武は、神道家や国学者から非難を浴び、教授を辞職しました。
久米邦武
岩倉使節団に随行し、見聞を『米欧回覧実記』にまとめた人物

久米邦武

日刊の新聞

1880~90年代、自由民権運動・条約改正などは、世論に賛否が問われました。
結果、政治評論中心の新聞大新聞が相次いで創刊されました。
大新聞は、政治思想を生み、また、近代文学の育成にも貢献しました。
日本最初の日本語の日刊新聞は、1871年に創刊された『横浜毎日新聞

『横浜毎日新聞』
江戸時代の瓦版の伝統を継ぎ、娯楽中心の新聞小新聞もありました。

定期刊行の雑誌

明治時代、次の雑誌が創刊され、様々な分野の紹介をおこないました。
明六雑誌
1874年、洋学者の啓蒙 けいもう的思想団体明六社の機関誌
国民之友
1887年、徳富蘇峰 とくとみそほうらの団体民友社の機関誌
日本人
1888年、三宅雪嶺 みやけせつれいらの団体政教社の機関誌
太陽
1895年創刊の総合雑誌で、高山樗牛 ちょぎゅう を主幹に日本主義を主張
文学界
北村透谷とうこく・島崎藤村とうそん が創刊した雑誌で、ロマン主義文学の拠点

戯作文学と政治小説

江戸時代の洒落しゃれ本や滑稽こっけい本の伝統を継ぐ勧善懲悪中心の戯作げさく文学と、政治思想を盛り込んだ政治小説が書かれました。

代表作家

仮名垣魯文かながきろぶん
文明開化の風俗を滑稽に描写し、代表作は『安愚楽鍋あぐらなべ
矢野龍渓やのりゅうけい
立憲改進党党員で、代表作は政治小説『経国美談
東海散士さんし
政治小説『佳人之かじんの奇遇』で、各国の独立運動と憂国の情を描写

『安愚楽鍋』の挿絵

写実主義文学

1885年、坪内逍遙つぼうちしょうよう が『小説神髄しんずい 』で西洋の文学理論を紹介して、日本の勧善懲悪的な文学観や政治小説を批判しました。
人情や世相をあるがままに描く作風写実主義が流行し、近代文学が始まりました。

代表作家

二葉亭四迷ふたばていしめい
浮雲うきぐも 』を著し、話し言葉に近い文章言文一致体を先駆
尾崎紅葉こうよう
金色夜叉こんじきやしゃ 』を著し、また、文学結社硯友社けんゆうしゃを組織
幸田露伴ろはん
東洋哲学を基盤に、『五重塔ごじゅうのとう 』で理想的な人物像を具現

ロマン主義文学

日清戦争前後、合理性に対する感情の優位を強調し、空想・恋愛を重んじる作風ロマン主義が盛んになりました。

代表作家

鷗外おうがい
軍医としても活躍し、代表作は処女作『舞姫
樋口一葉
代表作は、東京下町の女を描く『たけくらべ』『にごりえ』
与謝野晶子あきこ
詩集『みだれ髪』を発表、また、日露戦争中に「君死にたまふこと勿れ」を雑誌『 明星』に掲載

森鷗外

与謝野晶子

自然主義文学

日露戦争前後、フランス・ドイツの影響で、人間が隠す黒い欲望や暗い現実を、あるがままに描く作風自然主義が盛んになりました。

代表作家

国木田独歩くにきだどっぽ
ロマン主義の『武蔵野むさしの 』が代表作で、晩年に自然主義に移行
田山花袋かたい
代表作は、内弟子芳子への欲情を描く『蒲団ふとん
島崎藤村
1906年刊の『破戒はかい 』で被差別部落出身の青年教師の苦悩を描き、ロマン主義から自然主義へ移行
石川啄木たくぼく
代表作は、貧窮の中での生活感情を詠う歌集『一握いちあくの砂』

島崎藤村

石川啄木

反自然主義文学

明治時代末から大正期、自然主義に反発する、あるいは距離を置く立場がありました。

代表作家

夏目漱石
知識人の内面生活を国家・社会との関係で捉え、代表作の『吾輩わがはいは猫である』では猫に託して自身の社会観を表現
鷗外おうがい
晩年はロマン主義から離れ、歴史小説『阿部一族』などを発表

夏目漱石

森鷗外

その他

人道主義・戦地への思い

与謝野晶子あきこ
1904年、『明星』で反戦長詩「君死にたまふこと勿れ」を発表

与謝野晶子

俳句・和歌

正岡子規
病床にありながら、俳句雑誌『ホトトギス』創刊に協力し、写生に基づく俳句の革新と万葉調和歌の復興に尽力
伊藤左千夫さちお
正岡子規の門人で、『土』の作者長塚たかし と短歌雑誌『アララギ』を創刊

正岡子規

歌舞伎

幕末から明治初期にかけて、河竹黙阿弥もくあみ 歌舞伎かぶきで活躍しました。
1890年代、歌舞伎は次の3人による黄金期「団菊左時代」に入りました。

新派劇

オッペケペー節で知られた川上音二郎は、素人演劇「壮士芝居」に進出し、日清戦争を題材にして成功を収め、新派劇と呼ばれる潮流を形成しました。

新劇

日露戦争後、坪内逍遙つぼうちしょうようの文芸協会や小山内薫おさないかおるの演劇団体自由劇場が、西洋の近代劇を翻訳・上演し、歌舞伎や新派劇に対して新劇と呼ばれました。

西洋音楽

西洋音楽は、まず軍楽隊で取り入れられました。
伊沢修二の努力で、小学校教育に西洋の歌謡を模倣した唱歌しょうか が採用されました。
1887年、東京音楽学校が設立され、本格的な音楽教育が始まりました。
東京音楽学校は、『荒城こうじょうの月』『花』の作曲家滝廉太郎たきれんたろうを輩出しました。
美術

近代美術の概観

1876年、工部美術学校が設立され、西洋美術を教授しました。
岡倉天心とアメリカ人フェノロサが、伝統美術復興の気運を起こしました。
政府は、この気運や欧米での日本画の高い評価を見て、工部美術学校を閉鎖しました。
1887年、岡倉天心・フェノロサの尽力で、西洋美術を除外した東京美術学校が設立されました。
西洋画も次第に盛んになり、1896年、東京美術学校に西洋画科が新設されました。
1907年、第1次西園寺公望内閣の文相牧野伸顕のぶあきが、伝統美術と西洋美術の共栄を図り、日本画・洋画・彫刻の展覧の場文部省美術展覧会文展)を開催しました。

西洋画

西洋画は、高橋由一ゆいちに開拓されたが、伝統美術復興の気運で一時衰退しました。
浅井ちゅうが日本初の西洋美術団体の明治美術会を結成し、また、フランスで学んだ黒田清輝せいき の帰国で、西洋画は次第に盛んになりました。
1896年、黒田清輝は東京美術学校に西洋画科を新設しました。
同年、黒田清輝らが洋画団体白馬会を創立し、画壇がだん の主流を形成しました。

代表画家

高橋由一
西洋画の開拓者で、代表作は開拓の出発点となった『さけ

『鮭』
浅井ちゅう代表作は『収穫』で、工部美術学校でファンタネージに師事

『収穫』
黒田清輝
外光派で、代表作はフランス滞在中の『読書』のほか、『湖畔こはん

『読書』

『湖畔』
青木しげる
代表作は、千葉県の海がモチーフの『海のさち

『海の幸』

伝統美術

1898年に岡倉天心らが設立した団体日本美術院が伝統美術発展に貢献しました。

代表画家

狩野芳崖ほうがい
代表作は、母性愛を表現した『悲母ひぼ 観音

『悲母観音』

建築

コンドル
イギリス人建築家で、鹿鳴ろくめい ニコライ堂を設計

ニコライ堂
辰野金吾たつのきんご
日本銀行本店・東京駅などの洋風建築を設計

日本銀行本店

東京駅

大正の文化

マルクス主義の影響

使役する側「資本家」と使役される側「労働者」という二極化を打破し、真の平等を目指すという社会主義の一理論を、マルクス主義といいます。
マルクス主義は、知識人の間に広まり、学問の研究法にも影響を与えました。
1917年、マルクス主義に影響された河上はじめ が、経済評論『貧乏物語』で貧乏廃絶を訴え、多くの読者を獲得しました。

マルクス

河上肇
昭和初期、マルクス主義の論者が次の2派に分かれ、マルクス主義による日本の現状分析と革命の手立てを議論しました。

諸学問

人文科学

西田幾多郎
善の研究』で独創的な哲学を展開
津田左右吉そうきち
『古事記』『日本書紀』を科学的に分析し、『神代史の研究』(後に発禁処分)を著述
柳田国男やなぎたくにお
民間伝承の調査・研究を通じて、無名の民衆「常民」の生活史を解明する民俗学を確立

津田左右吉

柳田国男

自然科学

野口英世
梅毒スピロヘータの培養に成功、また、黄熱おうねつ 病を研究
本多光太郎
KS磁石鋼を発明
理化学研究所
国家・財閥の出資で設立された物理・化学の研究所
後に理研コンツェルンを形成した新興財閥の一つ

野口英世

文学

反自然主義文学

耽美たんび
官能的・享楽的な美の創造を目指す一派
永井荷風かふう の『腕くらべ』、谷崎潤一郎の『刺青 しせい』『痴人の愛』
白樺しらかば
雑誌『白樺しらかば 』を中心に、個人主義・人道主義を尊重する一派
武者小路実篤むしゃのこうじさねあつ の『その妹』『人間万歳』、有島武郎たけお の『カインの末裔まつえい 』『或る女』、志賀直哉なおやの『和解』『暗夜行路

プロレタリア文学

プロレタリア文学
社会主義の立場から労働者の姿を描く作品で、機関誌は『種蒔く人』『戦旗』など
徳永すなおの『太陽のない街』、小林多喜二たきじの『蟹工船かにこうせん

大衆文学

大衆文学
大衆雑誌『キング』などに掲載された作品
中里介山かいざんの『大菩薩峠

演劇

小山内薫おさないかおる土方与志ひじかたよしが創設した築地小劇場は、西洋近代劇新劇の中心拠点となりました。
女優松井須磨子や「蝶々夫人」に出演した歌手三浦たまきが活躍

音楽

山田耕筰こうさく が、日本で最初の交響楽団を創設し、作曲・指揮で活躍しました。

山田耕筰

美術

1907年に始まる文部省美術展覧会(文展)は、以降も回を重ねました。
一方、文展を嫌う梅原竜三郎安井曽太郎らは、二科会にかかい に参加して活動しました。

建築

辰野金吾たつのきんご
東京駅の設計

東京駅

大正の文化(大衆文化)

教育と新中間層

次の2点を背景に、高学歴者の増加や女性の社会進出が始まりました。

小学校就学率

中等・高等教育機関の充実
都市部に、事務系職員の俸給生活者(サラリーマン)が現れました。
彼らは、中級程度の生活水準をもち、新中間層とも呼ばれました。

丸の内ビルディングとサラリーマン
タイピスト・電話交換手・バスの車掌などの仕事に就く女性も現れ、職業婦人と呼ばれました。

女性の電話交換手

女性アナウンサー

大衆文化

国民全体の識字率向上や高学歴者の増加は、活字媒体の利用を促しました。
新聞・雑誌・ラジオ・映画などのマス=メディアが、新中間層・職業婦人を受け取り手として急速に発達しました。
これら一般勤労者(大衆)を担い手とする大衆文化が成立しました。

新聞と雑誌

新聞

『東京日日新聞』などの新聞が、発行部数100万部を超えました。
東洋経済新報
記者石橋湛山いしばしたんざん が、小日本主義に立ち、植民地放棄と平和的な経済発展を訴えた新聞
小日本主義
国家拡大の方針に対し、植民地放棄などを主張する立場

新聞の普及

石橋湛山

雑誌

総合雑誌:『改造』『中央公論』など、様々な情報を掲載する雑誌
大衆雑誌:「日本一面白い!」と宣伝する『キング』など、娯楽的雑誌
児童雑誌:1918年、鈴木三重吉みえきちが創刊した『赤い鳥』など
週刊誌・女性雑誌:『サンデー毎日』『主婦之友』など
円本:『現代日本文学全集』など、1冊1円という安価で売られた本

『キング』
*「日本一面白い!日本一為になる!日本一の大部数!」と宣伝

『赤い鳥』

音声と映像

ラジオ放送

1925年、東京・名古屋・大阪の3放送局でラジオ放送が始まりました。
1926年、3局を統合して、日本放送協会(NHK)が設立されました。
ラジオ劇・スポーツの実況などが人気を博し、放送網が全国に広がりました。

映画

当初の映画は、無声映像を解説者の語りとともに楽しむもので、活動写真と呼ばれました。
大正時代、日活や松竹などの映画会社が国産映画の製作を始めました。
1930年代、有声映像の製作が始まり、トーキーと呼称

家庭用映写機

生活の変化

建物

都心:鉄筋コンクリート造のオフィスビル(丸の内ビルディングなど)
郊外:新中間層向けの和洋折衷の文化住宅
1924年設立の同潤会どうじゅんかいは、関東大震災で被災した地区に、木造住宅や鉄筋コンクリート造のアパートを建設

丸の内ビルディング

服装

山高帽にステッキという姿のモダンボーイ(モボ)、断髪にスカートという姿のモダンガールモガ

モガ

食事

トンカツカレーライスなどの洋食

トンカツ

カレーライス

販売店

百貨店の発達、私鉄経営のターミナルデパートの登場

戦時下の文化

文学界の変化

昭和初期

次の文学が、昭和初期の文学界の二大潮流でした。

日中戦争の開戦後

1930年代前半の社会主義の弾圧でプロレタリア文学は壊滅していき、また、日中戦争が開戦したことで、文学界には次のような文学が現れました。
戦争文学
従軍体験など戦争を主題とする作品
従軍体験を記録した火野葦平ひのあしへい の『麦と兵隊』、兵士の実態を描き発禁となった石川達三たつぞう の『生きてゐる兵隊

『麦と兵隊』

石川達三
文学活動による戦争協力をおこなう国策的文学者団体日本文学報国会や、徳富蘇峰を会長とした文化人の国策協力団体大日本言論報国会が結成されました。

教育

1941年、小学校が国民学校と改称され、「忠君愛国」の教育が推進されました。
朝鮮・台湾で神社参拝や日本語の使用を強制する同化政策皇民化政策がとられ、また、朝鮮の人々の要求に応えて、姓名を日本式とする創氏改名を届出させました。
国民学校
国民全般が漏れなく学ぶことを教育することを強調

創氏改名の案内

占領期の文化

学術の発展

天皇制に関するタブーも解かれ、また、マルクス主義が急速に復活しました。
これらを通して、人文・社会科学の研究に新しい分野が開かれました。
1949年、あらゆる分野の学者の代表会議日本学術会議を設置

人文・社会・自然科学

考古学:岩宿遺跡・登呂遺跡の発掘
物理学:1949年、湯川秀樹が日本人初のノーベル賞を受賞、1965年、朝永 ともなが振一郎が日本人2人目のノーベル賞を受賞

湯川秀樹

文化財の保護

1949年1月26日、法隆寺金堂壁画が焼損しました。
文化財保護のため、1950年、文化財保護法が制定されました。
文化財保護法
同年、北山の鹿苑寺金閣の放火事件が起き、違反適用第1号

法隆寺金堂

法隆寺金堂壁画

文学

常識や既成の観念に挑戦する作品、自身の戦争体験を表現した作品が出ました。
一方、米軍や原爆に関する表現は、GHQのプレス=コードで統制されました。

代表作家

野間宏
『真空地帯』で、軍隊生活の非人間性を告発
大岡昇平
俘虜記ふりょき』で、米軍の捕虜になった経験を表現

その他

リンゴの唄
敗戦後の暗い世相の中で、爆発的にヒットした並木路子の曲
美空ひばり
自他共に歌謡界の女王と認める存在となった歌手
黒澤あきら
1951年、映画『羅生門』を監督し、国際映画祭金獅子賞を受賞

リンゴの唄

美空ひばり

高度経済成長

高度経済成長期の好景気


経済成長率

東京五輪ポスター

高度経済成長期の社会の変化

生活の変化
核家族:「夫婦と未婚の子」からなる世帯が増加
消費革命:耐久消費財などの普及で、各家庭の生活水準が向上
三種の神器:1950年代、白黒テレビ洗濯機冷蔵庫の普及
3C:1960年代、カーカラーテレビクーラーの普及
中流意識:国民の8~9割が、自分は人並みの生活階層「中流」に位置すると意識
テレビ放送
1953年(戦後)に始まり、1960年にカラー放送も開始

三種の神器

テレビを観る家族

3C
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