文化史(桃山文化~化政文化)

表記について
表記について

桃山文化

建築

城は中核をなす高層の天守閣てんしゅかく・石垣・くるわ をもちました。
このような城の建築様式を城郭じょうかく建築と呼びます。
土塁やほりで囲まれた小区画
城の内部は書院造という住宅様式

天守閣・郭

代表的な城郭建築・その他建築

聚楽第じゅらくてい
移築した遺構が大徳寺唐門からもん・西本願寺飛雲閣 ひうんかく

聚楽第

大徳寺唐門

西本願寺飛雲閣
(出典:フォト蔵

絵画

城郭建築の内部は、権威を視覚的に高めるために装飾されました。
欄間らんまにはすかぼり の彫刻である欄間彫刻が施され、また、壁・屏風びょうぶなどには障壁画が描かれました。
障壁画は、金箔地きんぱくじに青・緑を彩色する濃絵 だみえでした。
障壁画の題材には、深い教養をもたずに理解できる花鳥や風景が好まれました。
障壁画
水墨のものと金碧濃彩のものに分かれ、特に後者を濃絵と呼称
濃絵
視覚的に訴えやすいため、大名が見栄えや威厳強調に利用
障壁画の担い手の中心は狩野派でした。
安土城などの障壁画を描いた狩野永徳は、水墨画と大和絵の技法を融合して障壁画を大成しました。

障壁画(濃絵)

絵師と代表作

狩野永徳
『唐獅子図屛風』

『唐獅子図屛風』
長谷川等伯とうはく
『松林図屏風』『智積院襖絵ちしゃくいんふすまえ

『松林図屛風』

千利休は茶の儀礼を定め、茶の湯(茶道)、特に佗茶を大成しました。

芸能

歌舞伎

17世紀初め、出雲阿国いずものおくに が、念仏踊りに簡単なしぐさを加えた阿国歌舞伎という踊りを京都で始めました。

人形浄瑠璃・小歌

琉球から渡来した三味線を伴奏に人形を動かす人形浄瑠璃や、堺の商人高三隆達たかさぶりゅうたつが小歌に節付けをした隆達節が流行りました。

三味線

その他

盆踊りが各地でおこなわれました。

衣食住

小袖の一般化、男女の結髪けっぱつ
1日3食の一般化
都市:二階建ての住宅、瓦葺きかわらぶき の屋根

小袖を着た信長の妹

南蛮文化

文化の背景と影響

南蛮文化の背景には、次の2つがあげられます。
実用的な学問、南蛮風の衣服・食事などをもたらし、その影響が名前として残っているものもあります。
文化自体は、江戸幕府の鎖国政策で短命に終わりました。

ポルトガル語由来の名前
*ビードロ(硝子のこと)・カステラ・金平糖

絵画

南蛮の珍しい風俗を主題とした南蛮屛風が、日本人の手によって描かれ、南蛮文化の様子を今日に伝えます。

南蛮屛風

南蛮屛風(右上に南蛮寺)

印刷

宣教師ヴァリニャーニが金属製活字かつじ による活字印刷術を伝え、活字印刷機も輸入されました。
この印刷機による書物には、イエズス会が九州天草で刊行した天草版『平家物語』『イソップ物語伊曽保いそほ物語)』があります。
イエズス会が刊行した書物をキリシタン版と総称し、刊行地に基づいて細かく天草版・長崎版などと分類

活字

グーテンベルク印刷機

天草版『平家物語』

寛永期の文化

朱子学の受容

安土・桃山時代から江戸時代初頭、禅僧であった藤原惺窩せいか が、朱子学の教育に努めました。
江戸幕府・諸藩は、現状の秩序維持を目的に朱子学の受容を決めました。
藤原惺窩に推挙されたことで、その門人羅山らざん は徳川家康に用いられ、秀忠・家光・家綱と4代の侍講じこうを務めました。
林羅山は幕府の命で、子の鵞峰がほうとともに歴史書『本朝通鑑 つがん 』を完成させました。
林羅山の子孫は林家と呼ばれ、彼の子孫は代々儒者として幕府に仕えました。

文芸の発展

俳諧

京都の松永貞徳が、連歌から独立した俳諧(俳諧連歌)を指導しました。
松永貞徳の俳諧の一派は、貞門派と呼ばれます。
俳諧
連歌から用語の制限を取り払い、滑稽な要素を加えたもの

松永貞徳

仮名草子

教訓・道徳的な話を題材とした仮名書きの小説仮名草子が成立しました。

建築

権現造

豪華な装飾彫刻を施した、先祖の霊をまつる建物霊廟れいびょう建築が流行し、桃山文化の継承が見られます。
霊廟建築の代表的な建築様式は権現造ごんげんづくり でした。
権現造の代表例は、徳川家康を祀る霊廟建築日光東照宮です。
日光東照宮
参詣のため、幕府が直轄する日光道中で江戸と連絡

権現造

日光東照宮

数寄屋造

書院造に茶室の趣向を加えた建築様式数寄屋造すきやづくり が確立されました。
数寄屋造の代表例は、京都の桂離宮です。

桂離宮

桂離宮

絵画

狩野派

狩野派から狩野探幽が幕府の御用絵師となり、代表作に『大徳寺方丈ほうじょうふすま絵』があります。
その子孫は様式の踏襲に努めたため、画風は創意を欠きました
狩野探幽の門人で、後に破門された久隅守景くすみもりかげ は、代表作に『夕顔棚納涼図屛風』を残しました。

『夕顔棚納涼図屛風』

謎の絵師と絵画の新様式

俵屋宗達たわらやそうたつ は、土佐派の画法をもとに絵画の新様式を生み、元禄文化で発展した絵画様式琳派りんぱの創始者とされます。
俵屋宗達の代表作は、『風神雷神図屛風』です。

『風神雷神図屛風』

工芸

磁器

文禄・慶長の役で諸大名によって連れてこられた朝鮮人陶工により、朝鮮式の焼物やきもの技術(登窯のぼりがま 絵付えつけ)が伝わりました。
日本初の磁器である肥前の有田ありた を始め、九州・中国地方で磁器が生産されました。
有田の陶工酒井田柿右衛門は、上絵付うわえつけ の技法で赤絵を完成させました。

柿右衛門の作品

元禄文化

文学と芸能

元禄の三大作家

井原西鶴いはらさいかく
大坂町人の出身で、談林だんりん俳諧の開祖西山宗因そういんに学んだのち、浮世草子と呼ばれる小説を執筆
“好色物”の『好色一代男』、“武家物”の『武道伝来記』、“町人物”の『日本永代蔵』『世間せけん胸算用むねさんよう』が代表作

井原西鶴
松尾芭蕉
伊賀の出身で、奇抜な趣向をねらう談林俳諧に対して、自然と人間を鋭くみつめる蕉風(正風)俳諧を確立
奥の細道』『おい小文こぶみ 』、句集『猿蓑さるみの』が代表作

松尾芭蕉
近松門左衛門
武士の出身で、現実社会・歴史に題材を求め、義理と人情の葛藤かっとうを人形浄瑠璃じょうるり 歌舞伎かぶきの脚本で描写
世相に題材をとる“世話物”の『曽根崎心中』、史実に題材をとる“時代物”の『国性爺合戦 こくせんやかっせん 』が代表作

近松門左衛門

近松作品に関わった人物

竹本義太夫
浄瑠璃の語り手で、近松作品を語って活躍
独自の語り義太夫節は浄瑠璃の流派に成長

歌舞伎

江戸時代初期、女歌舞伎が禁止され、続いて若衆わかしゅ歌舞伎も禁止され、野郎 やろう歌舞伎のみが存続し、民衆の演劇として発達しました。
江戸
市川団十郎が、勇壮な演技荒事で好評を獲得
上方
坂田藤十郎が、恋愛劇和事で好評を獲得

市川団十郎

坂田藤十郎

儒学とその一派

海南かいなん学派(なん学)―朱子学の一派

山崎闇斎あんさい
谷時中に学び、神道を儒教流に解釈する垂加すいか 神道を創始
山崎闇斎を祖とする崎門きもん学や垂加神道は、幕末の尊王そんのう論に影響

系統図

古学派―孔子・朱熹しゅきの原典研究

山鹿素行
武士道徳を儒学の立場から説き、武士道を大成
聖教要録』は朱子学を非実用と批判したため、赤穂あこうに流刑
伊藤仁斎東涯 とうがい
古義学派を形成し、京都堀川に私塾古義堂を開塾
荻生徂徠おぎゅうそらい
古学派を継承し、統治の具体策である経世論を提唱
江戸茅場かやばに私塾蘐園けんえん塾を開塾
8代将軍徳川吉宗よしむねに重用され、吉宗の諮問に『政談』で回答
太宰春台
徂徠そらいに学び、『経済録』で藩による商業活動の重要性を主張

系統図

陽明学派―実践重視の儒学の一派

中江藤樹
日本陽明学の祖
熊沢蕃山ばんざん
藤樹とうじゅに学び、『大学或問わくもん 』での幕政批判を理由に幽閉

系統図

実証的な諸学問

本草学(博物学)・農学

貝原益軒
本草学の『大和本草やまとほんぞう
宮崎安貞
農書『農業全書

数学

吉田光由みつよし
和算書『塵劫記じんこうき 』を著し、日本の独自の数学和算わさんの普及に貢献
関孝和せきたかかず
筆算代数式・円周率計算を研究して和算を大成し、『発微はつび算法』を著述

和算

天文・暦学

渋川春海安井算哲
1684年、中国の暦を修正した貞享暦 じょうきょうれきを作成
遍暦を司る新たな役職天文方てんもんかたに就任

古典研究(国学のさきがけ)

契沖
『万葉集』を伝統にとらわれずに研究し、『万葉代匠記だいしょうき 』を著述
北村季吟
『源氏物語』を研究し、『源氏物語湖月抄こげつしょう 』を著述

絵画

狩野かのう派は技術水準の維持に固執し、急速に創造性を枯渇させていきました。
伝統的な大和絵系統の土佐派、その分脈の住吉すみよし派が活躍しました。
しかし、土佐派・住吉派も伝統の素直な継承に傾きがちでした。
尾形光琳おがたこうりん俵屋宗達たわらやそうたつの装飾的画法を取り入れてりん 派をおこしました。

土佐派

土佐光起みつおき
土佐派からの輩出が途絶えていた朝廷所属の絵師長に就任し、停滞していた土佐派を復興

住吉派

住吉如慶じょけい
土佐派出身だが、勅命で「住吉」と改称した住吉派の開祖

琳派

尾形光琳こうりん
代表作は『紅白梅こうはくばい図屏風』『燕子花かきつばた図屏風』

『紅白梅図屏風』

『燕子花図屏風』

浮世絵と版画

安房あわ出身の菱川師宣ひしかわもろのぶ が庶民的風俗画浮世絵とその版画を創始しました。
美人・役者を画題にし、代表作は肉筆の浮世絵の『見返り美人図』です。

『見返り美人図』

工芸品

野々村仁清ののむらにんせい
上絵付法うわえつけほうをもとに色絵を完成させ、京焼を大成
尾形光琳
本阿弥ほんあみ光悦こうえつ蒔絵まきえの技術を継承・発展
八橋やつはし蒔絵螺鈿らでん 硯箱すずりばこ』に得意の燕子花図の意匠を集約

『八橋蒔絵螺鈿硯箱』
尾形乾山けんざん
光琳の弟で、京焼の陶法を仁清に学び、高雅な作品を創造

染物

宮崎友禅ゆうぜん
友禅染ゆうぜんぞめを創始し、絵画のような自由度の高い図様を表現

友禅染の振袖

宝暦・天明期の文化

洋学

18世紀初め、次の書物で西洋のわずかな学術・知識が、ごく一部の人にのみ伝わりました。
華夷通商考
西川如見じょけんが長崎で見聞した海外・通商事情の地理書
西洋紀聞きぶん
新井白石が屋久島に潜伏した宣教師シドッチ訊問じんもんし、得た知識をもとに歴史・世界情勢を記述した書
采覧異言さいらんいげん
『西洋紀聞』と同様に新井白石が訊問で得た知識をもとに地理を記述した書
1720年、8代将軍徳川吉宗漢訳洋書輸入制限を緩め、また、青木昆陽野呂元丈らにオランダ語を学ばせました。
日本での西洋の学問(洋学)はらん学として発展し、また、実用的な面が強いものでした。

医学

山脇東洋
人体内部を観察し、日本初の解剖かいぼう図録『蔵志ぞうし 』を著した人物
杉田玄白前野良沢りょうたく
西洋医学の解剖書『ターヘル=アナトミア』を翻訳し、全5巻の『解体新書』を著した人物たち
宇田川玄随うだがわげんずい
オランダの内科書を翻訳し、『西説内科撰要せいせつないかせんよう』を著した人物

杉田玄白

左図を参考にした『解体新書』

物理学

平賀源内
長崎で学び、摩擦発電機の実験・不燃性の布の作成などをした人物

エレキテル

その他

大槻玄沢おおつきげんたく
玄白・良沢に学んで、蘭学の入学書『蘭学階梯かいてい 』を著し、また、蘭学教育のための私塾芝蘭堂しらんどう を開いた人物
稲村三伯いなむらさんぱく
オランダ人ハルマの『蘭仏辞書』を翻訳し、最初の蘭日辞書『ハルマ和解』を著した人物

『ハルマ和解』

国学

18世紀、古典の研究が進み、日本古来の精神を説く学問国学が成立しました。
国学は、儒教・仏教(儒仏)を外来思想として排除する傾向が強く、批判的精神も強い学問でした。

国学者

賀茂真淵かものまぶち
春満の門人で、『万葉集』の研究を通して日本古来の精神の復活を主張した人物
本居宣長もとおりのりなが
真淵の門人で、国学を大成して古事記伝』を著し、「漢意 からごころ」を批判した人物
はなわ保己一ほきいち
幕府の援助で、教授・文献収集をおこなう学問所和学講談所を創設し、また、『群書類従ぐんしょるいじゅう』の編修・刊行をおこなった盲目の人物

尊王論

幕藩体制の中の天皇を王者として尊ぶ思想を尊王そんのう と呼びます。
尊王論は元来「朝廷を尊ぶことで、天皇の委任で政権を預かる将軍・幕府の権威を守ろう」という思想だが、後に「“王者”の天皇が“覇者(武力での支配者)”の将軍に勝る」という尊王斥覇に変質し、討幕に繋がりました。
水戸藩の『大日本史』編纂事業を通して興った学問水戸学は尊王論が強く、朱子学を軸に国学・神道を総合して天皇尊崇と秩序の確立を説き、尊王斥覇の考えが主流でした。

尊王論と事件

1758年、宝暦事件
公家に尊王論を説いた国学者竹内式部の追放事件
1767年、明和事件
尊王斥覇を説き、幕政腐敗を強調した兵学者山県大弐やまがただいに が死罪、無関係の竹内式部も流罪となった事件

生活に密接な思想

庶民的生活倫理

18世紀初め、京都の町人石田梅岩ばいがん が儒学に仏教・神道を取り入れ、庶民の生き方を説く学問心学を創唱しました。

手島堵庵と心学の聴講者

社会への根本的批判

18世紀半ば、「生産労働者=被支配者」という構造を基盤とする社会を、根本から批判し、それを改めようとする意見が現れました。
例えば、八戸はちのへの医者安藤昌益しょうえき は『自然真営道しんえいどう 』を著して、武士が農民から搾取せず、万人が耕作して生活する世の中を理想と主張しました。

正学と異学

18世紀、新たな学問・思想の台頭に対し、幕府は儒学による武士の教育を奨励しました。
18世紀末、幕府は寛政異学の禁を発して朱子学を“正学”とし、湯島聖堂に付属する林家りんけ の私塾で朱子学以外の学派“異学”の講義を禁じました。
1797年、この私塾は切り離され、幕府直轄の学問所昌平坂学問所となりました。
異学
例えば、儒学の一派である古学(古学派)・陽明学など

昌平坂学問所

儒学の新たな一派

18世紀後半、古学が盛んになり、また、儒学の新たな一派も現れました。

教育施設

藩校

全国の藩に、藩士や子弟の教育施設藩校藩学)が設立されました。
当初、藩校は朱子学や武術を学ばせましたが、のちには蘭学・国学も取り入れました。

代表的な藩校
設立地 藩校名 設立者
米沢よねざわ 興譲館 上杉治憲はるのり
はぎ 明倫館 毛利吉元よしもと
熊本 時習館 細川重賢しげかた

郷校

藩の援助を得て、藩士や庶民の教育施設郷校郷学)が設立されました。
岡山藩主池田光政が建てた閑谷しずたに学校は最古の郷校です。

私塾

武士・学者・町人などは、各地に私塾を開き、儒学・国学・蘭学などを講義しました。

代表的な私塾
設立地 私塾名 設立者
江戸 蘐園塾けんえんじゅく 荻生徂徠おぎゅうそらい
江戸 芝蘭堂しらんどう 大槻玄沢おおつきげんたく
京都 古義堂 伊藤仁斎
大坂 懐徳かいとく 中井甃庵しゅうあん
大坂 洗心洞 大塩平八郎
大坂 適々斎てきてきさい 緒方洪庵
松下村塾 吉田松陰しょういんの叔父
長崎 鳴滝なるたき シーボルト

寺子屋

一般庶民の初等教育施設寺子屋が、都市や村に数多く設立されました。
浪人(ろう人)・僧侶・神職・町人・女性が、「読み・書き・そろばん」を主に教えました。

寺子屋
教授用の教科書には、出版された書物が用いられました。
貝原益軒かいばらえきけんの著作をもとにした『女大学』を用いた女子教育が進展しました。

その他

18世紀初め、大坂町人の出資を得て、懐徳堂が大坂に設立されました。
18世紀末の寛政の改革の頃、学頭の中井竹山ちくざんが朱子学・陽明学を町人に教え、『出定しゅつじょう 後語ごご 』の著者富永仲基とみながなかもとや『 夢のしろ』の著者山片蟠桃やまがたばんとう を輩出しました。

文学

小説

江戸時代中期、文学は身近な政治・事件を題材にしました。
出版物や貸本屋かしほんやの普及もあり、民衆に広く受容されました。
小説では浮世草子が衰え、次の小説様式が流行しました。
山東京伝・恋川春町は寛政の改革で弾圧されました。

山東京伝

恋川春町

俳諧

京都の与謝蕪村よさぶそんが、絵画的描写の画俳 がはい 一致の句を詠みました。

川柳

柄井川柳からいせんりゅう が、俳句の形式で世相風刺する川柳を始めました。

芸能

浄瑠璃・歌舞伎

18世紀前半、脚本『仮名手本忠臣蔵』を著した竹田出雲が浄瑠璃界に現れました。

竹田出雲(2世)

浮世絵

17世紀末、安房あわ出身の菱川師宣ひしかわもろのぶ は、庶民的風俗画浮世絵とその版画はんがを創始しました。
そして、小説の挿絵さしえという従属的位置にあった版画を、それ自体鑑賞に耐える、一枚 り(一枚絵)という独立した画面に昇華させました。
18世紀半ば、鈴木春信は一枚刷りの多色刷たしょくずり 浮世絵版画錦絵にしきえ創始しました
浮世絵の版画の手法に、人物の上半身または顔面のみを描く大首絵があり、18世紀末~19世紀初めに全盛期を迎えました。

代表的な浮世絵師と浮世絵

鈴木春信
浮世絵の黄金時代の先駆者で、代表作は『五常ごじょう
喜多川歌麿きたがわうたまろ
18世紀末、美人画を描き、大首絵の新様式を開いた人物
代表作は『婦女ふじょ人相にんそう十品じっぴん 』の『ポッピンを吹く女』
東洲斎写楽とうしゅうさいしゃらく
18世紀末、役者絵・相撲すもう絵を大首絵で描いた人物
代表作は市川団十郎(5世)を題材にした『市川鰕蔵えびぞう

『ポッピンを吹く女』

『市川鰕蔵』

写生画

円山応挙まるやまおうきょ は、洋画の遠近法を取り入れ、立体感のある写生画を描きました。

文人画

文人・学者が明や清の画風に影響を受け、余技よぎとして文人画を描きました。

代表的な文人・学者と文人画

池大雅いけのたいが与謝蕪村よさぶそん
非職業画家であり、文人画を大成した人物たち
代表作は2人の合作である『十便じゅうべん十宜図じゅうぎず

『十便十宜図』

洋風画

蘭学隆盛で油絵具や洋画の技法が伝わり、平賀源内ひらがげんない は『西洋婦人図』を描きました。

『西洋婦人図』

代表的な画家と洋風画

司馬江漢しばこうかん
平賀源内に学び、銅版画を創始した人物
代表作は『不忍しのばずの池図いけず
亜欧堂田善あおうどうでんぜん
銅版画を発展させた人物で、代表作は『浅間山図屏風』
銅版画
銅版に彫刻や薬品で絵画を刻み、印刷した版画

『不忍池図』

化政文化

新たな私塾の登場

19世紀前半、次の私塾が新設され、幕末から活躍する人物を輩出しました。

私塾

適々斎塾適塾
緒方洪庵大坂に開いた蘭学の塾で、福沢諭吉・大村益次郎ますじろう・橋本左内 さない らを輩出
松下村塾
藩士吉田松陰しょういん の叔父が長州萩に開いた塾で、松蔭のの教育の下、高杉晋作らを輩出
鳴滝塾
オランダ商館医シーボルトが長崎に開いた塾で、1839年の蛮社の獄で処罰された高野長英を輩出

緒方洪庵

吉田松陰

シーボルト

水戸学

19世紀前半、水戸藩では藩主徳川斉昭のもと、下の学者が活躍しました。
この時期の水戸藩の学風水戸学は、特に後期水戸学と区別され、天皇を尊び、異国を撃退する考え尊王攘夷論が展開されました。
水戸学
「“王者”天皇が“覇者(武力での支配者)”将軍に勝る」という尊王斥覇が、前期の考えであり、後期は「異国を撃退する」という攘夷が追加

水戸藩の学者

藤田幽谷・藤田東湖父子
尊王攘夷論を説き、子東湖は藩政改革にも尽力
会沢安
新論』を著して尊王攘夷論を説き、藩政改革にも尽力

藤田東湖

会沢安

国学

本居宣長もとおりのりなが死後の門人平田篤胤ひらたあつたね は、宣長の研究・思想の継承を自称し、儒教・仏教(儒仏)の影響を受ける前の、日本古来の精神へ戻ることを強く説きました。
平田篤胤は、解明した日本古来の精神を体系化し、復古神道として大成しました。
幕末、復古神道は豪農層や尊王攘夷論者に影響を与え、例えば女性運動家松尾多勢子たせこが現れました。

平田篤胤

経世論

海保青陵かいほせいりょう
稽古談けいこだん 』を著し、商業を軽視する武士の偏見を批判
本多利明
西域物語』で貿易の必要性を、『経世秘策 』で開国による富国政策を主張
佐藤信淵のぶひろ
『農政本論』『経済要録』を著し、産業の国営化と貿易の振興を主張

蘭学と科学技術

地理学

伊能忠敬は、還暦を司る役職天文方てんもんかた高橋至時よしとき に測地・暦法を学びました。
伊能忠敬は幕府の命令を受け、1800~16年にかけて全国の沿岸を測量し、『大日本沿海輿地よち 全図』の作成にあたりました。
『大日本沿海輿地全図』
日本初の実測による全国海岸線の地図で、伊能忠敬の死後3年の1821年に完成

伊能忠敬

『大日本沿海輿地全図』

天文学

1811年、幕府は至時の子で天文方の高橋景保の提唱をうけ、洋書翻訳のための機関蛮書和解御用ばんしょわげごよう を新設し、景保らが翻訳に当たった。
蛮書和解御用
後には洋書で得た知識の教授も担い、蕃書調所 ばんしょしらべしょと改称
元オランダ通詞志筑忠雄は、『暦象新書』で万有引力説・地動説を紹介し、また、ケンペルの『日本誌』の一部を邦訳し、『鎖国論』と命名

浅草天文台

方針違反への対応

幕府は、蘭学に対する方針(成果の機密・民間研究の禁止)違反に次の弾圧をしました。

小説

19世紀初め、小説は次の4様式に分かれていました。
天保の改革で、人情本の代表的作家為永春水ためながしゅんすいや合巻の代表的作家柳亭種彦りゅうていたねひこが処罰されました。

文学の展開

滑稽本

式亭三馬
代表作は湯屋ゆやを舞台にした『浮世風呂
十返舎一九じっぺんしゃいっく
代表作は江戸っ子2人の旅行記『東海道中膝栗毛

『浮世風呂』

『東海道中膝栗毛』

人情本

為永春水
代表作は女性の愛欲生活を描く『春色しゅんしょく梅児誉美 うめごよみ

読本

上田秋成
代表作は怪談『雨月物語
曲亭馬琴
代表作は里見家再興の伝奇『南総里見八犬伝

『南総里見八犬伝』

合巻

柳亭種彦
代表作は室町時代の大奥を描く『偐紫田舎源氏にせむらさきいなかげんじ

俳諧

信濃の百姓小林一茶いっさ が村々に生きる人々の生活などを詠みました。
代表作として、1年間の雑感をまとめた俳書『おらが春』が有名です。

和歌と狂歌

和歌よりも、滑稽味を取り入れた短歌狂歌が盛んに詠まれました。
大田南畝なんぽ (蜀山人)は、滑稽味のなかに風刺も込めた狂歌を詠みました。

その他

鈴木牧之ぼくしが、雪国の自然や生活を紹介する『北越雪譜ほくえつせっぷ』を著しました。

『北越雪譜』

浮世絵

18世紀末~19世紀初め、各地に名所が生まれ、人々の旅行が一般化しました。
多色刷たしょくずり浮世絵版画錦絵の風景画が流行しました。

代表的な浮世絵師と浮世絵

葛飾北斎かつしかほくさい
代表作は東海道と甲州から富士山を眺めた『富嶽三十六景ふがくさんじゅうろっけい
歌川広重
代表作は東海道の宿場町の風景・風俗を描く『東海道五十三次

『富嶽三十六景』

『東海道五十三次』の「御油」
*左は、旅人を強引に泊める旅籠の女性「留女」

多種多様な興行と芸能

歌舞伎

歌舞伎では、人気役者とともに次の作者が活躍しました。

信仰と結びつく娯楽

旅行

盛んになった旅行には、湯治とうじ物見ものみ遊山ゆさん のほか、信仰と結びつくものがありました。
例えば、伊勢神宮・金比羅こんぴら宮などへの寺社参詣、聖地・霊場への巡礼がありました。
伊勢神宮への集団参詣を御蔭おかげ 参りと呼称

御蔭参り
三河の国学者菅江真澄すがえますみ は、40年にわたって東北各地を旅しました。
その見聞を著した『菅江真澄遊覧記』は、民俗学において貴重な資料です。

行事・集まり

五節句・彼岸会ひがんえ盂蘭盆うらぼん会などの行事と、次のような庶民の集まりがありました。
庚申塔(塚)
三尸虫を押さえ込むと信じられた青面(しょうめん)金剛などが彫られた石造物

庚申塔(塚)

幕末期の文化

民間独自の神道

幕末、民間独自の神道が創始され、世の混乱に不安を抱く民衆を救いました。
上記の神道は、後に明治政府から公認されて教派神道と総称

中山みき

変革への期待

幕末、民衆は尊皇攘夷論に影響され、また、開国による物価上昇に不安を抱きました。
こうした民衆が幕末期に起こした一揆は、世直し一揆と呼ばれ、不平等のない世の到来を要求する側面がありました。
1867年8月から翌年にかけ、徳川氏の天下が崩れて世が変わっていく状態を、民衆が「ええじゃないか」と歌いあげ、はやし立てる集団乱舞が発生しました。

ええじゃないか