飛鳥文化
寺院―古墳にかわる権威の象徴
豪族は祖先供養のための寺院(氏寺)を建立した。
- 飛鳥寺(法興寺)
蘇我馬子創建の最古の寺院(奈良)
- 四天王寺
厩戸王創建の寺院(大阪)
伽藍配置
*寺院の堂塔の配置
飛鳥寺復元図
仏像の2つの様式と共通点
北魏様式
特徴は左右対称の幾何学的な衣文
代表的仏像
飛鳥寺釈迦如来像
法隆寺金堂釈迦三尊像
法隆寺夢殿救世観音像
釈迦如来像
釈迦三尊像
救世観音像
百済・南朝様式
特徴は変化する衣文で、自然な姿を表現
代表的仏像
法隆寺百済観音像
中宮寺半跏思惟像
広隆寺半跏思惟像
百済観音像
中宮寺半跏思惟像
広隆寺半跏思惟像
経典研究
三経義疏
3つの経典(法華経・維摩経・勝鬘経)に対する厩戸王(?)の注釈書の総称
様々な技術の伝来
白鳳文化
寺院の創建と移建
大官大寺
藤原京に造られた寺院で、後に平城京へ移築、大安寺と改称
「官立の大寺院」の意
薬師寺
藤原京に造られた官立の寺院で、後に平城京へ移築
「凍れる音楽」薬師寺東塔、塔上の水煙
仏像
法隆寺阿弥陀三尊像
法隆寺夢違観音像
薬師寺金堂薬師三尊像
興福寺仏頭
仏頭
蘇我倉山田石川麻呂創建の山田寺の本尊の頭部で、天武天皇が彼の冥福を祈るために造像
法隆寺阿弥陀三尊像
法隆寺夢違観音像
薬師寺三尊像
興福寺仏頭
絵画
法隆寺金堂壁画
1949年の焼失を契機に、文化財保護法を制定
法隆寺金堂壁画
高松塚古墳
天平文化
2つの歴史書
歴史書①
6世紀、「帝紀」(大王の系譜)・「旧辞」(朝廷の伝承)が編纂されたと考えられます。
天武天皇は、豪族のもつ「帝紀」「旧辞」の写本に誤りが多く、また、不必要な部分を削って一書にまとめるべきとし、訂正・集成に臨みました。
写本の過程での誤りに加え、「帝紀」「旧辞」は難解で誤読も多発
712年、『
古事記』
元明天皇の命令で、稗田阿礼
が「帝紀」「旧辞」の内容を正しく誦習し、それを太安万侶が整理しながら漢字で筆録
物語的要素が強く、神話・伝承も含んだ、天皇家による国土統治の歴史書
太安万侶
歴史書②
天武は中国に倣い、勅撰
による国史を古事記とは別に編纂して、支配の正当性や権威を示そうとしました。
720年、『
日本書紀』
舎人
親王が中心となり、神代から持統天皇までの歴史を漢文編年体で記述
勅撰による国史は、10世紀の『日本三代実録』まで計6つ編まれ、六国史と総称されました。
編年体
出来事を年代順に記述する、中国の国史の記述法
日本三代実録
醍醐天皇の御代である901年に完成
六国史
『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀
』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』
舎人親王
地誌
713年、諸国の国司に、国の地誌『風土記
』の編纂が命じられました。
国司は、国内の地名とその由来・動植物・伝承をまとめました。
漢詩
漢文でやりとりされる律令体制では、貴族・官吏に漢文の学習が求められました。
そのため、漢詩をたしなむことが貴族・官吏の間で流行しました。
漢詩文集
751年、『
懐風藻』
7世紀後半の漢詩を収めた、勅撰ではない最古の漢詩文集
和歌
『
万葉集』
8世紀半ばまでの和歌を収めた、勅撰ではない最古の和歌集
東国(三河以東)から集められた東歌
、兵役で九州に向かう防人が詠んだ防人歌など、作者不明とされる下級官人・庶民の和歌も多く収録
教育制度
教育機関は律令に従って整えられ、次の2種類に大別できます。
- 大学
式部省の管轄下で、中央(都)に置かれた教育機関
一定以上の位階の者の子弟が優先して入学
- 国学
国司の管轄下で、地方(国)に置かれた教育機関
郡司の子弟が優先して入学
教科には、例えば次の3種類がありました。
- 明経道
五経や『論語』などの儒教の経典を学ぶ教科
- 明法道
律令などの法律を学ぶ教科
- 紀伝道
漢詩・歴史を学ぶ教科(9世紀に重視)
これらの教科の修了後には位階がもらえました。
人と神仏の関わり
奈良時代の「仏の力で国家を安定させること」を
鎮護国家と呼びます。国家管理下で仏教(寺院建立・仏像造立)に力が注がれ、
行基
のような民間布教は弾圧されました。
仏教の6学派
奈良時代、南都六宗と総称される6つの学派が研究に力を注いだ。
南都六宗
三論宗・成実宗・法相
宗・倶舎宗・華厳宗・律宗
律宗
戒律(僧の守る規範)を日本に伝えた鑑真が、後に開いた学派
唐僧の招来
当初、日本では「受戒(僧になるための儀礼)」なしで僧になれました。
そして、僧になると税を免除されました。
読経もできずに、勝手に出家を宣言して僧となった私度僧が続出した。
「受戒」を義務化したいが、それを執り行える僧が日本にいませんでした。
唐から僧を招いたところ、753年、鑑真が渡来して戒律を伝えました。
鑑真
国家管理下の仏教
仏教は国家の管理下に置かれ、僧の勝手な布教活動などは規制されていました。
行基は民衆のために社会事業(橋・道路・灌漑施設の整備)に努めました。
行基は民衆への仏教布教にも努め、民衆の支持を受けたので弾圧されました。
その後、聖武天皇は大仏造立に行基の力を利用しようと弾圧を止めました。
行基
2つの技法
当時の仏像の作り方は、金銅像の他に次の2種類が主流でした。
乾漆像
塑像
各寺院の仏像
東大寺法華堂
不空羂索観音像(乾漆像)
月光菩薩像(左)・不空羂索観音像(中)・日光菩薩像(右)
唐招提寺
鑑真像(乾漆像)
鑑真像
興福寺
阿修羅像(乾漆像)
阿修羅像
建築物
東大寺正倉院宝庫
↓白い枠内を拡大↓
校倉造
断面が三角形の木材を井桁に組合せ、壁面を構築した建築様式
8世紀の倉庫ではごく普通の建築様式
唐招提寺金堂
工芸(正倉院宝庫所蔵)
正倉院宝庫には、聖武天皇の愛用品や庶民の日用品、シルクロードで伝わったササン朝ペルシア・インドなど西方の品々が収められています。
西方文化の香りに満ちることから、正倉院宝庫は「シルクロードの終着駅」とも表現できます。
シルクロード
*中国と西方を結ぶ交通路の総称
紺瑠璃杯
*側面に貼付技法あり
螺鈿紫檀五絃琵琶
*現存する世界唯一の五弦の琵琶
絵画
薬師寺
吉祥天像
吉祥天像
正倉院宝庫
鳥毛立女屛風
鳥毛立女屛風
樹下美人図
鳥毛立女屛風と相似する絵画です。樹下に美人を配する構図の源流はインドに求められます。トルファン(中国)で出土した下図も鳥毛立女屛風と同様の構図です。
弘仁・貞観文化
新しい2大仏教の2つの特徴
特徴1
加持祈禱
をおこない、現世利益を求めます。
加持祈禱は一部の限られた弟子のみに伝えられました。
このような、教えを外部に隠す宗派を密教と総称します。
密教に対して、南都六宗は誰でも教えを経典から学習可能
教えを公開する宗派を顕教と総称
印
特徴2
神聖視されている山を修行の場とします。
日本古来の山岳信仰が影響を受け、平安時代末期には修験道が成立
2大仏教と2人の僧
804年、僧最澄・空海が唐に派遣され、それぞれに異なる仏教を学びました。
彼ら2人の手によって、日本で2大仏教が開かれました。
人物 |
最澄 |
空海 |
開いた仏教 |
天台宗(中心経典:法華経)
|
真言宗
|
密教 |
弟子の円仁・円珍が密教を本格的に導入(台密)
|
空海自身が導入(東密)
|
寺 |
比叡山延暦寺が拠点
分裂
延暦寺(山門派)・園城寺(寺門派
)
|
高野山金剛峰寺が拠点
平安京の教王護国寺が布教の場
|
論文 |
『顕戒論』
|
『三教指帰』
|
論文の主張 |
受戒について、南都六宗を批判
|
儒教・仏教・道教のなかで仏教が優位
|
空海が最澄にあてた手紙3通は『風信帖
』に集成
天台宗は、後に延暦寺を拠点とする円仁の山門派、園城寺を拠点とする円珍の寺門派に分裂
円仁
唐に滞在中『入唐求法巡礼行記』という日本最古の旅行記を筆録
仏像の特徴
①木材の利用
平安時代には、粘土と同等以上に安価な「木材」を造像に利用しました。
造像の技法は、1本の木材から像を彫る一木造が主流でした。
一木造
②密教に関わる仏像
密教に関わる如意輪観音・不動明王などの仏像が多数造られました。
③大小に波打つ衣
衣文は、大きな波と小さな波が交互にうねる翻波式
で表現されました。
翻波式
代表的な像
仏像
観心寺如意輪観音像
如意輪観音像
絵画の題材
仏教の教えや世界観を視覚的に表現した曼荼羅
が描かれました。
特に密教では2つの曼荼羅を用いた両界曼荼羅で世界観を表現した。
両界曼荼羅
山岳寺院
山の地形に応じた自由な伽藍配置がなされた。
室生寺金堂が代表である。
室生寺金堂
代表的な漢文学
次の2つの影響で、漢文学が盛んに作られました。
- 嵯峨天皇の漢詩好み
- 文章経国思想
漢詩文集
『凌雲集
(日本初の勅撰漢詩集)』・『文華秀麗集』・『経国集』
天皇の命令で編纂した漢詩集(勅撰漢詩集)
『性霊集』
空海の漢詩文集
貴族と庶民の教育
大学で、儒教の経典を学ぶ明経道と、中国の歴史・文学を学ぶ
紀伝道が盛んになりました。
貴族は子弟の教育のために、書庫などを備えた寄宿施設大学別曹を設けました。
特に次の4氏族の大学別曹が有名です。
〔和気氏:弘文院、橘氏:学館院、藤原氏:勧学院、在原氏:奨学院〕
空海は綜芸種智院
をひらき、庶民に仏教や儒教を教育
大学別曹の語呂合わせ
わけ(和気)の分からぬ構文に(弘文)立場な(橘)くしてがっくり(学館)の藤原(藤原)くんには勧学(勧学)の奨学(奨学)金があり(在原)ました。
唐風の書
唐風の書体である唐様が広まりました。
嵯峨天皇・空海・橘逸勢
の3人は、唐様の達筆家として知られ、三筆と総称されます。
空海の書は、彼が最澄に宛てた手紙「風信帖
」で有名
唐様に対して、日本風の書体は和様
唐様(左)・和様(右)
国風文化
文字の発達
漢字をもとにしたかな文字(平がな:草書体の簡略化、片かな:字の一部分)が発達しました。
公式な文書でのかな文字の使用は避けられましたが、物語や日記では広く使われました。
代表的な著作物
かな物語
『
竹取物語』
かぐや姫の誕生や貴族の求婚失敗などを描く、最古のかな物語
『
伊勢物語』
主人公のモデルが在原業平である、和歌を中心とした歌物語集
『
源氏物語』
11世紀初め、紫式部が光源氏の生活を題材に著したかな物語
紫式部
随筆・日記
『
土佐日記』
10世紀に土佐国で国司を務めた紀貫之 の日記
『
蜻蛉日記』
藤原道綱の母の作で、藤原兼家に嫁いだ女性の苦悩を記した日記
『
更級日記』
菅原孝標の女作で、少女時代からの体験を記した日記
『
枕草子』
11世紀初め、清少納言が宮廷生活の体験を著した随筆
『
小右記』
藤原道長の「望月の歌」を書き留めた藤原実資の日記
『御堂関白記』
藤原道長が宮廷政治と日常生活の様子を記した日記
清少納言
和歌集
『
古今和歌集』
醍醐天皇の勅命で紀貫之らが編纂した勅撰和歌集
紀貫之
国風美術
大和絵
日本風景を題材とする絵画で、初期の画家は巨勢金岡が有名
和様
小野道風
・藤原佐理(離洛帖が有名)・藤原行成の3人は、和様の達筆家として知られ、三蹟と総称
語呂
唐風(道風)は去り(佐理
)て行くなり(行成)
浄土教の布教
釈迦の死没後2000年が経つと(1052年以降)、釈迦の教え(解脱の方法)は効果を失い、また、世の中は乱れるという考え末法思想が一部の者のなかにありました。
これらの者は、死後に阿弥陀仏(如来)の慈悲で仏の世界(極楽浄土)へ往
き(往生)、そこで仏の直接指導のもと解脱を遂げればよいとする教え浄土教を人々に説きました。
貴族や庶民に浄土教は広がり、信仰の対象である阿弥陀仏の美術品が作成されました。
阿弥陀仏
浄土教に関わる人物と著作
空也
10世紀、京の市で浄土教を説き、「市聖」と呼ばれた人物
源信(
恵心僧都)
念仏による往生を説き、『往生要集』を著した人物
空也像(六波羅蜜寺所蔵)
浄土教と美術
寺院と仏像
法成寺
藤原道長が創建した、阿弥陀堂を中心とする寺院
平等院鳳凰堂
藤原頼通が建立した平等院の阿弥陀堂
本尊の阿弥陀如来像は定朝の作
定朝
末法思想を背景とする仏像の大量需要に応えるため、一木造に代わる寄木造の技法を完成させた人物
平等院鳳凰堂
定朝作の阿弥陀如来像
寄木造
絵画
来迎図
死者の往生のために、阿弥陀如来が来迎する様子を描く絵画の総称
来迎図
浄土教以外の信仰
本地垂迹
説
仏教信仰に神祇信仰の要素が融合する神仏習合のなか、神と仏の並存状態を説いた理論
人の救済のため、仏(本地)が神という仮の姿(垂迹)で現れたと納得・説明
御霊会
災いを起こす怨霊(例:菅原道真)や疫神を慰め、祟りを逃れようとする鎮魂の祭礼
衣食住
服装
束帯
貴族男性の正装で、簡略化した日常着が直衣
女房装束
女性の正装で、十二単と俗称
束帯
女房装束
水干
食事
日に2回の食事で、仏教の影響もあって獣肉を避けました。
室町時代以降、日に3回の食事が一般化
住宅
寝殿造
貴族住宅に用いられた、白木造・檜皮葺など日本風の建築様式
寝殿造
慣習
裳着
10~15歳の間におこなわれる女性の成人式
物忌
変わったことが起こると、吉凶を占い、一定期間特定の建物で謹慎すること
方違
忌むべき方角をさけるため、他の方角で一泊してから目的地に向かうこと
院政期の文化
地方へ普及する文化
国風文化以降、末法思想と結びついた浄土教が次第に広がりました。
12世紀には、聖や上人の布教で全国に広がりました。
奥州藤原氏などの地方豪族も「阿弥陀堂」を建立しました。
阿弥陀堂
中尊寺金色堂(陸奥国、現岩手県平泉)
白水阿弥陀堂(陸奥国、現福島県いわき)
富貴寺大堂(豊後国、現大分県豊後)
各地の阿弥陀堂
受容される庶民の文化
当時、庶民のあいだで田楽・猿楽という芸能や今様という歌謡が流行しました。
貴族は当初庶民の文化を嫌悪しましたが、次第に受容していきました。
猿楽
滑稽なものまね、曲芸などが発展した芸能
代表的な歌謡集
『
梁塵秘抄』
後白河上皇が今様を集成した歌謡集
文学
地方・武士の動きに関心が高まったことで、合戦を題材にした軍記物語が書かれ、また、時代の転換期を感じて歴史に関心が高まったことで、歴史物語が書かれました。
軍記物語
『
将門記』
平将門の乱(935~40年)を記す、最初の軍記物語
『
陸奥話記』
前九年合戦(1051~62年)を記す軍記物語
歴史物語
『
大鏡』
藤原道長を中心とする摂関政治の栄華を批判的に記述した歴史物語
『
栄華物語』
藤原道長の栄華の賛美を中心とした歴史物語
『大鏡』『今鏡』に鎌倉時代の『水鏡』と南北朝時代の『増鏡』を合わせ、「四鏡」と総称
『六国史』のような歴史書が漢文で記述されたのに対し、歴史物語はかな書き和文で記述
その他
『
今昔物語集』
インド・中国・日本の仏教説話を和漢混淆文で記した説話集
絵画
絵巻物
『
鳥獣戯画』
動物を擬人化して、貴族社会や仏教界を風刺した作品
『
源氏物語絵巻』
紫式部が著した物語を絵画化した作品
『
信貴山縁起絵巻』
信貴山の毘沙門天信仰の霊験縁起談を描いた作品
装飾経
『
平家納経』
平氏一族の繁栄を祈り、安芸
国の厳島神社に奉納された装飾経
『
扇面古写経』
扇形の紙に、京の民衆の生活を描いた装飾経
鎌倉文化
和歌
職業的な専門歌人が登場して、歌の指導・優劣の判定を勤めました。
専門歌人の登場の一方で、後鳥羽上皇は和歌に異常な意欲を示し、13世紀初頭、藤原定家らに『新古今和歌集』を編纂させました。
後鳥羽上皇
藤原定家
13世紀初頭には、優れた歌集が新古今和歌集の他にも登場しました。
『
金槐和歌集』
藤原定家に学んだ3代将軍源実朝
の歌集
『
山家集』
もと武士で、出家して諸国を遍歴した西行の歌集
『金槐和歌集』
「金」とは鎌の偏を表し、「槐」とは大臣の中国名である槐門の意
源実朝
西行
随筆と説話
随筆
『
方丈記』
平安末期の災厄を描き、人や社会の無常を嘆く鴨長明
の随筆
『
徒然草』
14世紀の動乱期を深い洞察力で描く兼好法師の随筆
鴨長明
兼好法師
紀行と日記
鎌倉が政治の拠点になると、京都・鎌倉間を往復する人が増加しました。
『海道記』『東関紀行』などの紀行(旅行中の体験記)が登場しました。
『
十六夜日記』
阿仏尼
の日記で、夫藤原為家(定家の子)の所領訴訟のために鎌倉に下る話などの紀行も記録
十六夜日記
太陰暦16日の夜に京都を出発したことに由来
阿仏尼
軍記
院政期に軍記物語が登場して以来、合戦記録は公家の関心を引きました。
『保元物語』
保元の乱(1156年)を題材とする軍記物語
『平治物語』
平治の乱(1159年)を題材とする軍記物語
平家物語は琵琶法師によって平曲として語られました。
歴史と古典研究
歴史書
社会変動の中で、公家社会の推移を見つけようとする気運が生じました。
藤原忠通の子で天台座主の慈円は、『愚管抄
』を著しました。
『愚管抄』
物事には全てそれがそうである道理があり、特に歴史を貫く大きな道理を模索した歴史書
慈円
その他の歴史書
古典研究
過ぎ去った良き時代への懐古・尊重から、公家社会の儀礼・年中行事・官職などを研究する有職故実
という学問が盛んになりました。
承久の乱後に配流された順徳上皇は、著書『禁秘抄』で有職故実を解説
公家文化の受容・理解
鎌倉時代前期、幕府・武士は公家文化の受容・理解に努めました。
北条(金沢)実時は金沢文庫を建て、京都から書物を収集しました。
金沢文庫
鎌倉の外港として栄えた六浦の金沢に立地
北条実時
鎌倉新仏教
法然(1133~1212年)
著書
『選択本願念仏集』
親鸞(1173~1262年)
法然の弟子
宗派
浄土真宗(一向宗)
悪人こそが救済の対象であるとする、
悪人正機
悪人正機
親鸞の弟子唯円が著書『歎異抄
』で紹介
栄西(1141~1215年)
著書
『興禅護国論』
『喫茶養生記』
来日した禅僧
南宋からの禅僧蘭溪道隆(時期:北条時頼の頃、建立寺院:建長寺)、無学祖元(時期:北条時宗の頃、建立寺院:円覚寺)
道元(1200~1253年)
只管打坐
日蓮(1222~1282年)
1239~1289年
語録
『一遍上人語録』(一遍は死の直前に著書を焼却)
踊念仏
鎌倉新仏教の諸寺院まとめ
南都の仏教
南都六宗は仏教の革新と、民衆への接近を目指しました。
法相宗:貞慶(解脱)
華厳宗:明恵(高弁)
律宗:叡尊
(思円)
律宗:忍性(良観)
明恵
神の信仰とその他
神の信仰―教義の必要性
伊勢外宮の神官度会家行は、伊勢神道を生み出しました。
度会家行
『
類聚神祇本源』を著し、
本地垂迹説を否定
神本仏迹説(反本地垂迹説)を唱えて、神(本地
)が仏という仮の姿(垂迹)でも現れたのだと説明・納得
その他
- 修験道(日本古来の山岳信仰と密教の融合)が独自の立場を確立
- 朱熹(朱子)に構築された朱子学(儒学の一派)が日本に伝来
特に朱子学が強調する大義名分論は、後醍醐天皇に強く影響しました。
大義名分論
君臣の間には不変の秩序があり、これは守られるべきとする考え
後醍醐は、天皇=「主」、幕府=「従」があるべき姿とし、討幕を計画
建築
1181年、平重衡が東大寺など奈良の寺院を攻めました(南都焼打ち)。
重源が東大寺の再建の責任者に任じられました。
重源は各地で寄付を集め、大仏様という新しい建築様式で、東大寺の再建を進めました。
現存する東大寺南大門は、数少ない大仏様の遺構の1つです。
大仏様
宋から伝わった建築様式で、必要な装飾を省略するため、少ない用材で短期間に建築可能
陳和卿
重源を助け、東大寺の大仏復興に参加した宋の工人
大仏様
(東大寺南大門)
他の建築様式
禅宗様
(
円覚寺舎利殿)
彫刻
南大門
金剛力士像(仏師:
運慶・
快慶ら)
六波羅蜜
寺空也上人像
(仏師:康勝)
絵画
絵巻物
『
蒙古襲来絵巻』
竹崎季長が描かせた絵巻
*右側の人物が竹崎季長
*「福岡の市」『一遍上人絵伝』(場面左:一遍)
肖像画
写実的な技法の発展、個性の重視、宋の絵画の影響が重なりました。
似絵と呼ばれる肖像画が発達しました。
描き手として、藤原隆信・藤原信実
父子が有名です。
禅宗の僧は、一人前になると師や先輩僧の肖像画を拝受
この肖像画は頂相
と呼ばれ、主に礼拝に使用
伝源頼朝像
伝平重盛像
頂相
*蘭溪道隆
頂相
*明恵上人
その他
刀剣
武士の成長とともに、刀剣の製作が盛んになりました。
名工として、備前の長船長光・京都の藤四郎吉光・鎌倉の岡崎正宗が有名でした。
正宗
正宗の短刀
書道
尊円入道親王が和様に宋の書風を加味し、青蓮院流を創始しました。
尊円入道親王
陶器
加藤景正が中国の製法(釉
の利用)を伝え、尾張で瀬戸焼を始めたと言われています。
室町文化
3つの時期区分
- 南北朝文化
時期は主に南北朝時代にあたり、動乱の緊張感を背景に歴史書や軍記物語が盛んに作られた文化
- 北山文化
時期は14世紀末から15世紀前半にあたり、公家・武家の文化融合が進み、禅宗など中国の文化も受けた文化
名称は3代将軍足利義満が京都北山に山荘を建てたことに由来し、この山荘の一部が鹿苑寺金閣
- 東山文化
時期は応仁の乱中から乱後にあたり、禅の精神に基づく簡素さ(侘)や、言葉で表せない深くほのかな余韻(幽玄)を特徴とする文化
名称は8代将軍足利義政が京都東山に山荘を建てたことに由来し、この山荘の一部が慈照寺銀閣
鹿苑寺金閣
慈照寺銀閣
室町文化-南北朝文化
歴史書と軍記物語
北畠親房
幼少の天皇のために、有職故実の書『職原抄』も執筆
諸文化の流行
田楽・猿楽の演劇形態能、和歌の上句と下句を別の者が作る連歌、多人数で茶を楽しむ茶寄合で茶の味を飲み分ける闘茶が流行しました。
二条良基は『菟玖波
集』を編纂して連歌を和歌と対等の地位にし、また、連歌の規則書『応安新式』を著しました。
「ばさら」と呼ばれる、人目をひく珍奇で派手な服装・行動を好む風潮も流行
田楽能と猿楽能
室町文化-北山文化
建築
代表例は3代将軍足利義満が建立した鹿苑寺金閣です。
鹿苑寺金閣の建築様式は、伝統的な寝殿造と禅宗様の折衷です。
その他、禅の精神を表現した庭園も造園
仏教
初代将軍足利尊氏が夢窓疎石を篤く帰依したため、室町幕府は鎌倉幕府の方針を受け継ぎ、臨済宗を保護しました。
幕府は臨済宗の寺院を管理するため、五山・十刹の制という寺院の格付けを定めていきました。
五山・十刹の制は足利義満の時代にほぼ完成しました。
五山・十刹の制
文学
五山の僧は、漢詩文や漢文学研究の書物五山文学を書きました。
出版活動も展開され、木版印刷されたものを五山版と呼びました。
五山文学の最盛期に、二大権威絶海中津
・義堂周信
が活躍しました。
絵画
禅の精神を具現化した絵として、水墨画が描かれました。
東福寺の明兆、相国寺の如拙(代表作:『瓢鮎図』)・周文(代表作:『寒山拾得図
』)など五山の僧に基礎が築かれました。
『瓢鮎図』
能
観世座の観阿弥・世阿弥父子は、足利義満の保護を受け、猿楽能を大成しました。
また、世阿弥は能の理論書『風姿花伝(花伝書)』を著しました。
室町文化-東山文化
建築と庭園
建築
代表例は8代将軍足利義政が建立した山荘です。
山荘の一部である慈照寺銀閣の下層及び
慈照寺東求堂同仁斎は書院造という建築様式です。
書院造
寝殿造を発展させ、より多い間仕切りと座敷が特徴
慈照寺銀閣
慈照寺東求堂(中の一室が同仁斎)
慈照寺東求堂同仁斎
庭園
水を用いずに、砂・石で山水自然を表現する枯山水が、河原者という造園の技術集団の手で、禅宗寺院の庭に造園されました。
代表例は龍安寺や大徳寺大仙院の庭園です。
枯山水
目に見えない水を感じることが禅の精神に通じる庭園
大徳寺大仙院の庭園
峡谷を発した水がやがて大河となる全景を表現
龍安寺庭園
大徳寺大仙院庭園
同朋衆
室町時代、将軍の傍に仕えて雑事・芸能に従事した集団を同朋衆と呼びました。
河原者出身の善阿弥は、足利義政に仕える同朋衆になり、大徳寺大仙院庭園を手がけました。
伝統文化の基礎
茶の湯(茶道)
村田珠光が茶と禅の精神を結びつけ、簡素な座敷・道具で精神的深さを味わう
佗茶を創始しました。
村田珠光に次いで武野紹鷗
が佗茶をさらに簡素化し、千利休がそれを引き継いで大成させました。
茶の湯
茶をたて客をもてなすことで、佗茶は茶の湯の一種
江戸時代以降、茶の湯は「茶道」とも呼称
生花(花道)
生花の1つの様式として、座敷を飾る立花が確立されました。
名手として、池坊専慶
が有名です。
立花
絵画
水墨画
雪舟が水墨画の作画技術を大成しました。
雪舟の代表作は『秋冬山水図』『四季山水図巻』です。
雪舟
『秋冬山水図』
『四季山水図巻(春)』
『四季山水図巻(夏)』
『四季山水図巻(秋)』
『四季山水図巻(冬)』
大和絵
大和絵では次の2派が活躍しました。
- 土佐派:土佐光信が土佐派の基礎固め
- 狩野派:狩野正信・狩野元信父子が水墨画に大和絵の手法を加味し、新たに狩野派を創始
狩野元信『四季花鳥図』
連歌
次の2人がそれぞれに独自の歌風を確立しました。
- 宗祇が『新撰菟玖波
集』を編纂して、芸術的な正風
連歌を確立
- 宗鑑が『犬筑波集』を編纂して、娯楽的・庶民的な俳諧連歌を確立
宗祇
弟子たちと詠んだ『水無瀬三吟百韻
』も有名
宗祇
宗鑑
学問と思想
学問
一条兼良が9代将軍足利義尚
のために教訓書『樵談治要
』を著しました。
思想
神本仏迹説(反本地垂迹説)に基づき、
吉田兼倶が
唯一神道を確立しました。
庶民文芸の流行
芸能
田楽・猿楽から発達した能は庶民にも好まれました。
能の幕間に行われる狂言には日常的な言葉が用いられ、庶民の生活がその題材に選ばれました。
狂言
その他芸能
風流踊り・小歌が庶民に好まれ、特に小歌の歌集として『閑吟集』が編まれました。
識字率の向上
商工業者をはじめ、農村でも読み・書き・計算が普及しました。
15世紀半ば、『節用集』という辞書が作られ、知識の普及に大きな役割を果たしました。
『節用集』
鎌倉仏教の動向
世俗を嫌った禅宗の一派
幕府の保護を受ける臨済宗の一派(五山派あるいは
叢林)に対して、世俗を嫌った臨済宗の一派および曹洞宗は林下と呼ばれました。
林下は地方で布教をおこない、地方の武士や庶民の支持を得ました。
林下の寺院には、臨済宗では妙心
寺・大徳寺、曹洞宗では永平寺でありました。
臨済宗大徳寺の僧一休宗純は、五山の腐敗や堕落を批判しました。
一休宗純
日蓮宗の展開
関東に留まっていた布教が、室町時代には京にも及ぶようになりました。
6代将軍足利義教の時代に現れた日親は、他宗と激しい論戦をして、しばしば迫害を受けました。
日蓮宗は京で信者を徐々に増やし、法華一揆を結んで他宗と衝突しました。
1536年、
天文法華の乱
法華一揆が比叡山延暦寺と衝突し、一時京を追われた事件
鍋をかぶせられる日親
浄土真宗(一向宗)の展開
応仁の乱の頃、本願寺の蓮如が現れ、御文という平易な文章で浄土真宗の教義を説きました。
また、講という門徒の集会を惣村ごとに開かせ、御文を送って信仰を固めさせました。
門徒の結束力は強大になり、各地で一向一揆が起きました。
代表的な一向一揆は、1488年の
加賀の一向一揆です。
蓮如
文化の地方普及
知識人
応仁の乱後、守護は京の貴族を受け入れたり、知識人を招いたりして威信を高めました。
桂庵玄樹は肥後の菊池氏・薩摩の島津氏に招かれて朱子学を講じました。
桂庵玄樹…
薩南学派の祖で、薩摩国で朱熹
の『大学章句』を刊行
板東の大学
15世紀中頃、関東管領上杉憲実が足利学校を再興しました。
足利学校は関東の学問の拠点となり、全国から人々が集まりました。
教科書
「御成敗式目」や往来物『庭訓往来』が読み書きの手本にされました。
往来物
手紙のやり取りを参考に、生活に必要な知識を学ぶ教科書の総称
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